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<人間らしい判断力とはどうして育てるのでしょうか>
●思考力の中には<人間らしい判断力>が含まれます。判断は言動に直結する最終的な砦ですので強固に育てる必要があります。しかしながら、この判断力の基礎は感情ですので感情教育を終えなければならない6才までの教育が間違っていると頭で分かっていても体で分かっていない<一見異常のない異常な子>を育ててしまいます。
<正しい感情教育>と<自力で考える力>が揃って人間らしい判断力を養成できるのです。
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 判断力は独立したものではありませんので判断力という名前の力をポツンと育てることは出来ません。まず、3才までの情緒の安定、次に6才までの正しい感情教育、そして、9才までの視考力を活用した具象思考による豊かな思考力養成、最後に12才までの自分の(素直で正しい)感情に基づいた人間らしい判断力養成となります。特に判断力の要となる感情を育成する感情教育を丁寧にすべき時期に最も危険な知的系統的学習をさせてしまうとこの要を失ってしまうことになりますので外見からは分からない爆弾を抱えた「普通の子」に育ってしまいます。

1.感情教育の欠如+思考力の欠如=判断力はない=見たものを真似する
2.感情教育の欠如+猿真似思考力=猿真似判断力=身勝手な理論で行動する(作られた基準でも動く)
3.豊かな感情教育+思考力の欠如=感覚的判断力=感覚的だが人間らしい行動が出来る
4.豊かな感情教育+思考力養成 =人間的判断力=自力で考え人間的な判断を示し行動できる
※但し、現代のように異常な情報に日夜さらされていると、感覚麻痺と同様に感情麻痺が起こりやすく、正常な感情教育を受けていても麻痺してしまうことがある。この場合もブレーキの効きは甘くなり、異常行動に移る場合もある。ただ、この場合には感情麻痺の外敵を取り除き安定した状態に戻すことで回復が可能である。コレが出来ないのが1.2.である。この場合は、感情が曽樽臨界期を越えているので再生は見込めない。犯罪者の更生が可能かどうかは実はこの幼児・児童期の感情教育にある。

※最もやっかいなのは2.である。外見的には普通であったり優秀であったりするからだ。「普通の子が残虐な犯行に及ぶ」とか「優秀な子供が〜」とか「急にキレる」となる。これらは当然のことである。なぜならば、表面化すること(言動)は全て判断フィルターを通過して行われるのだから、そのフィルターが十分に育っていなければブレーキは効かないのである。昔はそれでも今と比べれば情報(刺激)が少なかったのでブレーキを頻繁に使わなくても一生を終えることが出来ていた。しかしながら現代は危険な情報が溢れている。だから、ブレーキを育て上げることが出来なければ、どんなに外見が優れていても非常に危険なのだ。しかも、それは本人にも分からない。育っていないものは感じることが出来ないからだ。知的系統的学習(早期教育)などやってる時間は微塵もないのだ。
これだけ異常現象が起きているのに、まだ気付かないのだろうか。今までの教育の失敗が表面化してしまっているのだ。「ゆとり教育」ではなく「高速多量のストレス教育」の失敗である。
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§ゆとり教育に対する「批判」の勘違い
 ゆとり教育の理念は間違っていませんが理論も方法もありませんでした。ですからゆとり教育が原因で学力が低下したと思われたのは当然でしたし、批判の的になるのも当然でした。ですが、批判そのものは的外れです。ゆとり教育の批判の中に「読み・書き・計算」という基礎学力を軽視したからだという論調がありますが、全く違うと思います。「読み・書き・計算」が基礎学力だったのなら、こんなに一気に学力低下が表面化はしません。学力衰退の下地が十分にあったから表面のコーティングをとっただけでボロボロの中身が見えただけなのです。
 「ゆとり教育」の前も後も子供達の宿題は全く同じ「読み・書き・計算」でしたし、やっていることは形を変えた(考える学習と呼ばれる)考えない学習でした。なぜなら、考えるとは具体的にはどういうことかさえ分かっていないのですから本当の考える学習などできるハズがないからです。「ゆとり教育」の目標はメッキのコーティング(単純作業的学力)の下(本当の学力:思考力)をキチンと作ろうということだったのですが、残念なことに作り方を誰も知らなかったのです。だから、コーティングを剥がしたまま的外れな時間つぶしをすることになってしまったのです。そこで、今までの学力衰退が表面化したのです。つまり、「ゆとり教育」が証明したことは少なくとも「読み・書き・計算」は基礎学力ではないということだったのです。
 私は二十数年前に大手塾の大失敗を目の当たりにしました。それは、進学率をあげようとして、それまで小四からだった入塾を小三からにし、ついには小一からにしたことです。塾生は増えましたが進学率は上がりませんでした。そして、低学年戦略は学力養成とは関係のない、単なる塾生の囲い込み戦略となって今に至っています。
 次の書評(抜粋)は教育雑誌「いきいきニコラ」の馬場氏の書評です。重要な資料としての価値を持つ書評だと思いますので掲載します。
※全文はhttp://www.os.rim.or.jp/~nicolas/9sainokabe.html
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■「9歳の壁」と子どもの学習〜T.Itoyama著『絶対学力』から思うこと
 Itoyama氏の言う「9歳の壁」というのはどういうものか。人は12歳までに抽象思考ができるようになる自然なプログラムを持っているが、そのプログラムに逆らって幼少期に先行学習やパターン学習をさせると、考える力が育たず具象思考から抽象思考に変化する「9歳の壁」を乗り越えられなくなる。具体的には、暗記力と計算力で満点をとっていた子が高学年になると学力不振に陥る。それは考えない習慣をつけさせ、マニュアル人間を作り出すからだというのだ。これは今流行りの知的早期教育への警鐘でもあろう。これについては、私の若い頃の経験による傍証がある。ある進学塾で仕事をしていた時、その塾は日の出の勢いで躍進をしていたが、もっと生徒を増やそうという方針で、それまで小学4年生から通塾させていたものを、親の要望も受けて小学3年生から引き受けることにした。それで教育熱心な(?)家庭の子弟が通い始めた。中学受験は早いほうがいいというわけだ。確かに熱心な子が多く勉強の成果もあがった。ところが、数年経ち高学年になった頃から奇妙なことが明らかになってきた。受験学年になるころにその子たちの成績の伸び悩みが見られるようになってきたのである。そして、5年生や6年生なってから通塾し始めた子どもたちに追い抜かれることさえ起きてきた。通塾を勧める関係上、父母には秘密であったが、塾内では半ば公然の認識であった。その後の受験の結果はもはや推して知るべしであった。なぜ、こういうことが起きたのか。通塾の弊害が明らかであった。一般には「塾慣れ」とか「塾疲れ」とか言われたが、私はもっと別のところに原因があると思っていた。それは学校に通い、塾や習い事に通うことに忙殺され、ひたすら理解し覚えることに1日の時間の大半が使われ、ほとんど自分で考える実行する習慣を持つことなく来てしまったことの結果ではないかと考えていた。いくら優れた水泳の指導書を読んでも実際に自分の体で会得しなければ水泳が出来るようにはならない。このことを、Itoyama氏は『絶対学力』(本物の学力)の中でより体系的に明らかにしてくれている。
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 私は馬場氏とは面識がありません。ですが、大手塾の講師をしていた二十数年前に彼と同じ体験をしています。ということは、この現象は全国的なものだったのだと思われます。
 そして今、「読み・書き・計算」を徹底反復して基礎学力を付けようとの名目で、高速計算練習を軸とした、かつて大手塾が犯した大失敗と同じ道を突き進んでいる小学校が出てきているようですが、どうにか思いとどまって欲しいものです。私は、二十年も前に、小学校低学年で高速計算を徹底反復させられ、漢字や諺を大量に覚えさせられた子供たちの悲惨な結末を見てきたのです。漢字はイメージと連動させることで救いようがありますが、高速計算だけは、どうやっても救いようがありません。どこまでいっても、やっているのは「10の補数と九九」の反復だけだからです。私の経験では、小学校低学年での高速計算練習ほど頭を固くするものは他にはありません。応用のきかない発想の乏しい頭を作ってしまいます。ですから、これだけは絶対にやらせてはいけないのです。今、現役の小学校の先生が、かつて塾が試み、大失敗した低学年戦略を知らないのは仕方がないでしょう。ですが、子供の反応をよく見れば分かるはずです。見せかけの見栄えのする力がいかに有害なものかに早く気づいてもらいたいものです。