家本 芳郎 (いえもと よしろう)
公立小学校、中学校で約30年 教師生活を送った後、研究活動にはいる。長年にわたり全国生活指導研究協議会、日本生活指導研究所の活動に参加。全国教育文化研究所、横須賀教育文化研究所、日本群読教育の会の活動に参加。。2005年11月 引退。
【訃報】家本芳郎先生は肺癌のため、2006年2月15日お亡くなりになりました。昨秋から咳の症状があり、結核が疑われて治療をされていたそうです。すでにその時には癌に冒されていたようですが、中学生の時になさった結核の陰に癌が隠れていたので発見できなかったとのこと。享年75歳。
家本芳郎の教育時評(2002年10月号)「ほんとうの学力」をめぐって●「教育時評」目次
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今回の「ほんとうの学力をつける本」(「文芸春秋」蔭山英男)には、黙殺というわけにはいかなくなった。メル友から「先生どう思う」というような意見が届けられるようになったからだ。「中学校でも百マス計算をはじめようと思いますが」そんな相談がきて、急いでわたしも読んでみて、びっくりした。書いてあることは、反復練習と家庭の協力が必要だという、これまでに繰り返し言われてきたことである。特に目新しいことはなかったが、しかし、いくつかの見逃せない問題を含んでいた。感じたことは4つあった。
★大学合格の力は本当の学力か★1つは、本当の学力を受験学力によって評価していることである。本の表紙に「進学塾もない。やまあいの公立小学校、10年の実践から、有名大学合格者が続出しました」とある。出版社が本を売るために、誇大宣伝をするのはよくあることで、しかたがない。それにしてもえげつないなと思って読んでいったら、本文のなかで、著者本人も言及し、自慢していた。これには驚いた。自己の実践を語るに、大学受験成功を誇示して自賛する公立小学校教師はいない。いないというのは、ふつうにはいないという意味である。進学塾の宣伝にはよくあるが、それでも小学校を持ち出す例はない。しかし、今や、自己宣伝の時代、やまあいに生きる教師の世に出る気概なのだろう。これまでの地味な教育実践の鬱積が爆発したともいえる。だが、それは受験学力を身につけたのであって「本当の学力を身につけた」のではない。そこがまちがっている。むろん、基礎学力は受験学力の一部を構成するが、イコールではない。今日の授業は、丸ごと受験学力にからめとれないように、少しでも「本当の学力」を育てようとする努力が積み重ねられてきた歴史をもつ。斎藤喜博氏以来の伝統である。著者に影響を与えた「落ち研」の岸本裕史氏も、その一角にあって、受験学力と激しく切り結んできた一人である。著者は、そうした教育実践の遺産を食い潰して、受験学力に奉仕する学力を「本当の学力」だと、新たに定義しなおした。わたしは、この考え方には反対である。だとすると、「大学に合格しないのは本当の学力を身につけていないからだ」となる。「大学に合格する力」は、ほんとうの学力ではない。
★百マス計算は万能ではない★2つ目の問題は、百マス計算である。これは、岸本裕史氏の創意による、すぐれた教材である。だが、すぐれものは、創始者の意図とは別に、しばしば一人歩きし誤解をまきちらす。この本もその誤例である。百マス計算の万能視という誤例である。百マス計算は、ある時期の、ある子どもたちに有効な教材であって、これだけやればなにもかも充たされるということはない。百マス計算によって子どもたちは自信をつけたというが、ほかにもいくらでも自信をつけさせる方法はある。もともと、百マス計算にも批判があった。いくら計算が早くできるようになったとしても、ドリルは、考えることを疎外する教育工学的な方法で、クレペリン検査の練習みたいなものだという批判である。この教材なら、公文塾でもやっている。学校が公文の真似をすることはない。スキルだけ上達しても、そこから創造性が生み出される可能性は少ないというのである。算盤が上手で暗算のお得意な子どもが、揃って東大に入ったかというと、そんなことはない。ソロバン上手な子どもはいくらもいたが、その能力によってトップを占めたという例は少ない。それだけでは、あるところまで行くと、頭うちになる。冒頭の「中学校でも百マス計算を」にたいしては「やめとけ」と助言した。「中学校では、もっと別の方法で、学力を身につける学習にとりくむべきだ」と。どうも日本の教師は新しもの好きである。「百マス計算がいい」というCMが流れると「百マス計算! 百マス計算!」と大騒ぎになる。それは、丸山真男氏流にいうと「現在手にしているものに含まれている可能性を利用する能力に乏しいからだ」そうな。新しいものを追いかけまわして、自分を見失わないようにしたいものである。
★生活統制★さて、3つは生活統制である。著者の考える家庭生活の統制は、いっとき流行した古い方法である。生活の乱れが子どもの心身を蝕み、低学力をもたらしているのではないか。そこで、生活のリズムとスタイルを確立しようとして、生活点検表を配布し、「顔を洗ったか。歯を磨いたか。朝飯を食ったか。うんちをしたか」など調べ、指導した。この指導は、有効にみえたが、親のしつけを評価し、プライバシーを侵害するものとして総反撃をくって、しだいに立ち消えていった。嘘の報告をする家庭がでてきたこともある。生活リズムとスタイルの確立の指導にはテクニックがある。やんわりとソフトに全体指導しながら、生活の乱れている生徒に焦点化して指導するという方法である。この生活統制は、やがて、人権意識の高い保護者からの反撃を食らうことになろう。安易に真似しないことだ。
★地域の教育力の軽視★4は地域の教育力の軽視がある。「進学塾もない。山間の公立小学校、10年の実践から、有名大学合格者が続出した」のは、著者を中心とする小学校の教育の成果だけではない。地域には幼稚園もあり、中学校もあり、高校もあり、そこでの教育も大きく加算されて、「有名大学」への合格が可能になったのではないだろうか。もともと小学校教育ははかないものである。小学校で、徹底して教育したことも、子どもの成長にともない、進級するにつれて、その時期の教育と交じりあい、発展したり、同化したり、否定されたり、風化したり、解消したりする。しかし、そのはかなさこそが特質であって、小学校をいつまでも引きずっているようでは、ろくなものではない。その意味では、地域総体の受験競争体制が「有名大学合格」をもたらしたのである。そして、「有名大学合格者が続出」ということが名誉であるとするならば、その名誉は著者が独り占めにすることではない。こういう態度では、地域教育界、さらに、自校の教職員との連帯を失うことになろう。もっとも「予言者故郷に入れられず」であるが。以上、4つのことを感じた。だが、著者の名誉のために言っておく。書いてあることの多くはまっとうである。ここでは、あえて、問題点だけを指摘し、警鐘を鳴らした。