第1話 本当の僕を探して
1959年。バーモント州にも秋が訪れ始めたばかりのころ、
人里離れた名門私立校ウェルトン学院に一人の教師がやってきた。
同校の卒業生でもある、国語教師ジョン・キーティングである。

「いまはまだ信じがたいかもしれない。
だが、ここにいる全員、いつの日にか
息が止まる日が来て、冷たくなって
死んでいく。

いまを生きろ若者たちよ。
君だけの人生をつかむのだ!」

新任教師キーティングの授業は出だしから
教室を飛び出しての風変わりなものだった。

  「世間の人は言う、"言葉で世の中は変えられない"。・・だが、そんなことはない。
  詩を書くのはカッコイイからじゃない。本来、人間というものは情熱に溢れている存在だ。
  医学や法律や工学を学ぶことも確かに大切。生活を維持するために必要なことだ。
  しかし、詩や、美しさや、ロマンスや、恋はいったいなんのためにある?

  答えはひとつ。それは生きる糧だ。心を支えるものだ。

  命に糧があってこそ、この身もまさしくここに存在する。
  人生の"劇"に情熱があってこそ、一篇の詩もそこに引き寄せられる。
  それが"君がここにいる"という「存在証明」というやつだ。
  君たちの"一篇の詩"は、どんなものになるのだろう?」

グラフによって詩を解説した概論全ページを破り捨てさせ、人の心の声(詩)は数値では決して測れないものである
ということ、決まりきった枠に収まらずに、詩を勉強するのではなく、詩を感じることの素晴らしさを教え、自分それぞれ
の力で伸び伸び考え感じて表現し、心を解放していくことの大切さを、生徒一人一人に情熱を込めて説いていく。

          われわれが必ずしなければならない最高の経験、というものがある。
          それは、陶器の壺を製作したり、絵を描いたりして、
          『これこそ私の分身だ』と言えるものをつくることだ。
          何事かを成し遂げたからこそ、私は存在する。
          私はあるものを創造した。従って、私として存在するのだ。
                                              マズロー

          芸術って言うと難しく聞こえるけど 芸術ってのは心を動かすための娯楽なんだ
          つまり、感動を与えてくれるもの  だから、芸術は人生を豊かにする
          感動とは 感情の動きそのもの 感情の流れそのもの のことである
          感動を味わい続けることで人生は豊かになる
          感動するたびに 人は人になっていく
                                              T.Itoyama

その後も、風変わりで型破りな授業は続いていく。

  「自分の歩きを見つけろ 
  自分だけのペース 
  自分だけの方向を 
  バカみたいでもいい 
  中庭は君らのものだ!」

個性を殺すことの危険性を身をもって教えるために、中庭でそれぞれの歩きをさせてみたり、
あるときは、突然教壇の上に飛び乗ってみせたりもした。

一方的な偏見や古い習慣が全てではないこと、他者から受けた影響などから一旦切り放し、
“見方を少し変えてみるだけで世界がどんなに違って見えるか”を気づかせるためである。

  「われわれは、新しいものの見方を見つけるための努力を、かたときも怠ってはならない。
  さあ、なんで私が机の上に乗ったか分かるか? それは、ものごとを常に違う側面から
  見つめるためだ。ここから見ると教室の風景もいつもと違って見える。君たちも来い。
  分かってることも別の面から見直せ。どんなにバカらしく見えてもやってみろ。

  本を読むときは、作者より自分はどう思うかだ。先入観にとらわれず、自分の感性を信じろ。
  君たちの目標は、君ら自身の声を見つけることだ。探すのを先に延ばせば延ばすだけ、自分の声は
  見つかりにくくなる。 "人は静かな絶望に生きる"なんて諦めるな。 新しい大地を見いだせ!」

自己主張をすれば、たちまち「不良」「はみだし者」というレッテルを貼られてしまっていたこの時代。
学校と父親が絶対的な存在だったなかで、全校生徒が同じ顔で列をなすことを余儀なくされていた機械的な毎日。
校則や、親の厳しいしつけと過剰な期待に、"本当の自分"を見失ってしまい、身も心も機械化していた少年たち。

「ここで教えるのが好きなんだ。この学校のようなところに、
 最低でもひとりは、僕みたいな教師が必要だしね。」

たとえば"学ぶこと"も、違う側面から見ようとすれば、
決して堅苦しいものではないということ。
キーティングは、サッカーと音楽のリズム感を
用いた国語の授業で、伸び伸びと生徒達の
好奇心を駆り立てる。

"誰かの言葉"ではなく、"自分の言葉"で。"誰かの考え"ではなく、"自分の考え"で。 勉学に対しても、
違う側面から見ようとすれば、世界は違って見えるということ。物の見方でどうにでも変えられるということ。
つまり、"誰か"次第で決められた世界は虚像に過ぎず、すべては"自分"の考え方次第であるということ。

                  大切なのは
                  「どうすべきか」ではない
                  大切なのは
                  「自分ならどうするか」だ

                              T.Itoyama

少年たちに「学ぶことの楽しさ」を教え、彼らの心の底に眠っていた創造力の芽を引き出し、
可能性をどんどん広げ、生まれ持ったそれぞれの個性≪本来の自分≫を活かせるような、
輝ける未来に繋げていく… それが、キーティングの教育に対する情熱であり、夢でもあった。

   「当校ではカリキュラムが決まってるんだぞ。効果は実証ずみだ。無視されては困る」

   「わたしはいつも、教育とは"自分の頭で考えること"を教えていくことだと考えています」

   「あの年頃の少年たちが?できっこない!相手は子供だぞ!伝統や規律を重んじろ!
   大学に進学させることだけを考えていればいいんだ。他のことは、どうとでもなるさ。
   私だったら、生徒が画一化しようが、きみほど心配しないがね」

自分のユニークさを発見するのが人生

これまで、ひとりひとりの人間の独自性、その人らしさはあまり評価されることがなかったと思う。
個性とは、遺伝的要素も含め、生を受けてから今日に至るまでのあらゆる経験の総体である・・
その考えには私も賛成だ。しかし、ある要素が無視されていると言えないだろうか。

それは、ひとりひとりを他の人とは違った存在にしているものであり、あなたの今後の
人生計画と人生観を決定し、あなたらしさをつくる要素でもあるのだ。
私達は、その「自分らしさ」を見失っているのではないのだろうか。

教育とは、それぞれの個人に、自分らしさを発見させ、それをどう伸ばしていくか、また、
それをどう他者と共有するかを教えるものであるべきだ。
自分の持っているものを他者と分かち合ってこそ、自分らしさを持つことの意味は生きる。

人々が次のように言える社会が実現すれば、素晴らしいと思う。
「あなたがユニークな存在であることは素晴らしいことです。
私とあなたの違いを、私に見せてください。そこから、私が学べるように」
しかし現実は、すべての人々を「同じにしよう」とする試みばかりが目につく。

ひとりひとりの人間がユニークな存在である。自然は同じものをひどく嫌うように見える。
野の花はそれぞれ違った美しさを持ち、草の葉でもまったく同じものはない。
同じ種類のバラの花でも、二つがそっくり同じというのがあるだろうか?
一卵性であろうと、何から何までそっくりということはない。

しかし人間は変わった生き物である。多様性は人を不安にする。
さまざまな違いのあることに喜びや驚きを感じるのではなく、たいていはそれを恐れる。
ユニークであること(その人らしさを持つこと)を避けたがったり、それを無理にねじまげて
同じものにしてしまおうとする。同じになると、安心するのだ。

教育の真の機能は、その子に自分のユニークさを発見させ、それを発達させ、
そしていかに他者と分かち合うかを伝えることであるはずだ。ところが、現在の教育は、
「現実」と称するものを子ども達に押しつけるのが、仕事になっている。
この過ちが人の個性をつぶしていく。

それぞれの子どもが世の中に新しい希望をもたらすはずなのである。
ところが多くの人々がそのことに不安を感じている。
「個性主義者」だけからなる社会とは、いったいどんなものなのか?
手に負えない無政府状態になりはしないだろうか?
恐怖にかられて、われわれはたじろぐ。

サイレント・マジョリティ(ものいわぬ大衆)のほうが気楽に付き合えるのだ。
「変わり者」にはとかく不信の目を向ける。
家庭では子どもたちを社会秩序に適合できるように育てなくてはならない。

教育にもまた同じ任務がある。現状維持が保てれば、それで教育は成功なのだ。
いわゆる「よき市民」を育てたとき、教育はうまくいったということになる。「よき市民」とは何か?
それは、たいていの場合、ほかの大勢と「同じように考え、行動し、反応する人」なのである。

教育者はまた、こうも考えている。自分たちの義務は、きわめて重要な知識体系を
それぞれの子ども達に教え込むことだ、と。 また自分たちは、「現代の知恵」を
教えていると、自己弁護をするのだ。
                                    レオ・バスカリア

名門進学校らしからぬ、型破りで圧巻的なキーティングの授業に、最初は戸惑っていた生徒達であったが、
一人一人の個性を見つめ、全身でぶつかってくるキーティングの情熱に、閉じていた心が開いていくと同時に
自分の中で眠っていた"何か"が目覚め、やがて生徒一人一人がその"何か"を模索しだしていくことになる。

          行こう友よ 新しい世界を探しに
          夕陽に帆をかけ 彼方へと こぎだそう

          天地をも揺り動かした昔日の力は
          今はこうしてあるがままに あるがままに..

          たとえこの身は衰えていこうとも
          英雄なるものの心は強く 意志は固く

          探し求めて 見いだそう
          決して屈することなく
                           A.テニスン

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<生きる力と勉強する理由> T.Itoyama著書/新刊「絶対学力」

「どうして勉強しなきゃいけないの?」「数学が何の役に立つんですか?」
「英語なんて使わないのにどうして覚えなきゃいけないんですか?」等
と言われて困った経験はありませんか。

勉強をする理由は「勉強は人間(成人)になるための頭の体操だから」です。
そして「教育とは人生を楽しむことが出来る力を育てること」です。
他の理由は全てオマケです。

教育界では「生きる力」という言葉が流行しています。
しかし「生きる力」と言われても、どうもピンとこない。
そこで「生き抜く力」と言ってみると少しは分かりやすいでしょう。
つまり、世界のどこにいても生き抜くことができる力のことを「生きる力」と言うんです。

日本は今まで海と言葉に守られて来ました。ですが、これからは海も言葉も守ってはくれません。
仕事と同じように、時代が進むとともに距離の壁も言葉の壁もなくなる(ボーダーレスになる)からです。

そんな時に一体何が自分を守ってくれるのでしょう。
それは自分しかいません。

今も昔も自分を守るのは自分しかいないんです。いつまでも親がいるわけではありません。
いつも隣に親友がいてくれるわけではありません。いつでもどこでも一緒にいるのは自分だけなんです。

では、どうしたら自分で自分を守れるのでしょう。何が力になるのでしょう。
それは「自分を信じる力」があるかどうかにかかっています。
自分を信じることを自信と言います。

では、自分に自信があるとはどういうことでしょう。
自信があるとは、色んな価値観の中でも自分の価値観を見失わずに生きていけるということです。
誰に何と言われても自分の判断を信じて生きていけるということです。
自分が作り出した価値観・判断基準を持てる力のことを「生きる力」と呼ぶのです。

そして、この力をつけるには、どうしても「考える力」が必要になります。
だから人は勉強するんです。

色んな考え方が出来るように勉強するんです。間違ってはいけない。
頭はへんてこりんな計算をするためにあるのではありません。
頭は自分の判断基準を作るためにあるのです。

そして、これがあると人生は一気に楽しくなります。
だから「生きる力」=「人生を楽しむことが出来る力」となるのです。
これが「教育とは人生を楽しむことが出来る力を育てること」と言える理由です。

今、テレビで「ワンピースーOne Pieceー」というアニメを放送しています。
その冒頭で次のような言葉が流れます。

「世界が、そうだ、自由を求め選ぶべき世界が目の前に広々と横たわっている。
終わらぬ夢がお前たちの導き手なら、越えてゆけ、おのが信念の旗のもとに」

これは、まさに「自分の価値観を信じて生きろ」ということを伝えている言葉です。
そして、なぜこのアニメが人を惹きつけるのか、それは登場人物が、この言葉のように
自分の判断で行動しているからです。

ルフィー、ゾロ、ナミ、ウソップ、サンジ、チョッパー、
みんなが自分の判断で行動しているから面白いんです。