第2話 真実という光のなかで
何かの運命に導かれるように、キーティングと時を同じくして、この名門ウェルトン学院に
転校してきたトッド・アンダーソンは、友人もいなく、家族からも疎外され、怯えたように
気弱な態度で、いつも人の影に隠れてしまうような、心を閉ざした内気な少年だった。

   「僕は信じていた・・ 親というものは、自動的に子供を愛するものなんだと・・・
   先生からもそう教わっていたし、先生に読むように言われた本にもそう書いてあった。
   だからずっとそう信じてた。 ・・けど、そんなことは決してないんだと、今になって思う。
   確かに兄貴のほうは愛したのかもしれないけれど、僕のことは愛してはくれなかった。 

   "5ドル98セント"。 ・・・子どもの頃から、僕は父さんからそう呼ばれていた。
   人体に含まれる化学物質を、瓶詰めにして売ったら、そのくらいの値段になるという。
   "成績のため"に努力しない人間なんて、将来、"立派な人間"にはなれない。
   5ドル98セント、おまえなんかそれだけの価値しかない。僕はずっとそう言われてきたんだ・・」

魂の殺人 「いわゆる"闇教育"」

抑圧された子どものほとんどは、自分のことを非常に否定的に見ており、
自分自身のことを「馬鹿」だとか、「誰も好きになってくれない子」で、
「なんにもできず」「どうしようもない」のだと言うのであった。

この子たちは誰が見ても大変よくできていることがあっても、決してそれを得意に思うと
いうことがなかった。何か新しいことをやるのもためらい、間違えてしまうのではないかと
非常に恐れており、なんでもないことでひどく恥じ入ってしまうのだった。

そのうちの何人かの子には、自分の感情というものがないのではないかと思えるほどであった。
子どもたちのこのような状態には明らかに、両親の考え方が反映しているのであるが、
この子たちの両親はつまり、子どもを一個の人格としてではなく、あくまでも自分達の
欲求を満足させるために必要なものとしてしか見ていないのである。

                                           A・ミラー

卒業生総代で国民栄誉研究者の兄。 家にいても、どこに行っても、優秀な兄と比べられ、
どこにも自分の居場所を見いだせず、自分自身にいわれのない罪悪感を抱いていたトッド。

   「彼は自分をダメな人間と思い込んで恥じてる。
    そうだろ? 君は恐れている。 
    だが君の中にも素晴らしい何かがある!」 

"誰か..."に抑えつけられたまま行き場をなくしてしまい、
心のどこかにずっと閉じ込められていた本来の"自分..."。

  
「笑うやつなんかほっておけ!」
                                         
真実は足がはみでる毛布だ
                          
広げても引っ張っても 僕たち誰一人をも覆ってくれない
                      
この世に生まれ堕ちた瞬間から 死してこの世を去るその日まで
                          
この真実という毛布は 嘆き叫ぶ僕らの顔しか隠せない

ときに挑発を交えた、キーティングの魔法のような
勢い余る情熱に、まるでなすすべもなく引き込まれ
たかのように、初めて腹の底から感情を剥き出しに
したトッドは、一篇の詩を力強く"自分"に引き寄せ、
周りの者を圧倒する。

それまで自分の奥底に、そういう"自分"がいることさえ
知らなかったトッド自身も、その出来事に驚き立ち尽くす。

眠っている「もうひとりの自分」を探す

 人間の潜在能力はそのほぼ5パーセントしか、その人の生涯で実現されないのだという。
 残りの95パーセントはどうなっているのだろう。 もうひとりのあなたが、眠っているのだ。

 それはあなたの中にあって、実現されることを待っている潜在性(可能性)である。
 あなたの知能指数60だろうが160だろうが、そんなことは関係ない。
 あなたが現在分かっている以上のものが、あなたにはあるのだ。

 聖ヨハネの福音書は告げている。 われわれの家には数多くの部屋があり、
 それぞれに明らかにされている奇跡が入っているのだと。それなのにどうして
 そのひとつひとつの部屋を、クモやネズミの住みかとして朽ちるにまかせ、
 我が家をも死の支配にゆだねることができようか、と。

 発見の可能性はいつでもある。遅すぎるということは決してない。
 そう考えれば、人は100倍の勇気を得て、自己の探求に旅立つだろう。
 そして、自分の部屋を見つけ、それを整理するだろう。
 それが多くの可能性を持つ自分との出会いである。

 よい人間、愛ある人、知的な人間になろうとするだけではない。
 自分が他の誰とも違うユニークな人間であることを、人生とは、そのユニークさ(自分らしさ)
 を発見し、発達させ、人と分かち合う過程であるということを理解しなくてはならない。

 この過程は決して簡単なものではない。それは、あなたが変わること、
 成長することに、怖れを抱き、阻んでくる人々が必ず出てくるからだ。
 だが、自分にとって何が正しいのか、それを最終的に判断するのは自分自身のほかにはいない。

                                           レオ・バスカリア

それまで、周りの評価を気にしすぎて、劣等感に苛まれていた自分。

自分を縛っていたのは自分自身。
自分を傷つけられるのは自分だけ。
すべては"自分"の考え方次第で、心は"自由"になれるということ。

閉ざされていた心が開き、初めて希望という"光"が差し込んだ瞬間だった。

          誰かが言った ゛がまんするんだ゛
          俺は叫ぼう ゛がまんできない゛
          苦労をすれば 報われる
          そんな言葉は 空っぽだ

          手にしたモノを よく見てみれば
          望んだモノと 全然 違う
          しがみつく程 価値もない
          そんなモノなら いらないよ

          スクラップには なりたくない
          スクラップには されたくない
          ただ 自分でいたいだけ

          未来の夢を 書いた作文
          子供の頃に 書いた作文
          そんな心を いつまでも
          バカにされても 忘れないで

          クヨクヨしても しょうがないから
          ビクビクしても しょうがないから
          とりあえず 今日 笑いながら
          ドアを開いて 出ていくよ

          スクラップには なりたくない
          スクラップには されたくない
          ただ 自分でいたいだけ

                   真島昌利 <THE BLUE HEARTS>

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<どうして勉強するの?> 日高 博之 著 (ニチハク労働事務所/社会保険労務士)

子供から「どうして勉強しなければならないの?」と尋ねられて、あなたは、はっきりとした回答ができますか?
「立派な人間になるためだよ!」と回答すると、次に、「じゃあ、勉強をしない人は、立派の人間ではないの?」
との質問が帰ってくるでしょう。そして、この質問にはほとんどの人が納得できる回答をすることができないことでしょう。
なぜ、納得できるような回答ができないのでしょうか?

それは、立派な人間とはどんな人間なのか、がはっきりと理解し認識されていないからではないでしょうか。
立派な人間とは、地位の高い人あるいはお金持ちの人に代表されるいわゆる狭義での成功した人という理解、
認識しかないからなのではないでしょうか。「外面性」のみで人間の価値を評価、判断しているからなのです。

 本当に立派な人間とは、心の豊かな人であり、「内面性」で評価、判断されるべきなのです。

では、心の豊かな人とはどんな人なのでしょうか? それは、一つの出来事(これを、「事実」といいます)に対して、
いろいろな物の見方・考え方ができる人だと思います。 一面的な物の見方・考え方しかできなくて、しかもそれのみが
正しい見方・考え方なのだと思い込み、挙げ句の果てには、その様な物の見方・考え方を他人に押しつけるような人は、
仮に地位の高い人であっても、お金持ちの人であっても、およそ立派な人間であるとは言い難いでしょう。

人間は、勉強することによって、まさにこうした多面的な物の見方・考え方ができるようになり、
心の豊かな人間すなわち立派な人間に成長していくといえます。だから、勉強しなければならないのです。
そして、一生勉強しなければならないのだと思います。

名古屋大学法学部の専門基礎セミナーにおいて取り上げた、
いわゆる「隣人訴訟(津地裁昭和58年2月25日判決)」
に関する文献を勉強したときに、このことを痛感させられました。

本判決に対して、マスコミは、こぞって「善意がアダ」、「近隣関係に冷水」などの大見出しで、
勝訴した原告(子供を亡くした親)側を非難する内容の報道を行いました。

そうしたところ、このマスコミ報道に影響された300通を超える「鬼畜生死ね」などと書かれた
嫌がらせのハガキや手紙が届けられたり、嫌がらせ電話がひっきりなしにかかってきました。
また、父親は会社から事実上の解雇処分も受けました。
その結果、原告側はノイローゼ状態となり、控訴を取り下げることになりました。

この控訴取り下げに対してマスコミの対応は一転しました。
「嫌がらせは暴力」、「裁判を受ける権利あり」などと原告側を支持する内容の報道を行ったところ、
今度は「このカミソリで死ね」などと書いた嫌がらせの手紙が被告(子供を預かった親)側に
送られてくるようになり、被告側も控訴の取り下げに同意せざるをえなくなりました。
その結果、訴訟は初めからなかったものとして白紙に戻り、確定しました。

事実関係や当事者の事情を十分にわからないまま、自己の独善的正義感情を相手に押しつける
無責任
かつ暴力的な行為が、どこにも紛争の解決手段を得ることのできなかった人から
「裁判を受ける権利」を取り上げる結果となってしまいました。