ここで再びSUZUのぼやき
〜SUZU的映画エッセイ〜

兄ちゃんに「おもしろいから見てみて」と渡されたのが、この映画と出逢ったキッカケ。
いかにもお父さんが好きそうな感じだなと思って(実は当時のすずには難しすぎた)、
お父さんにも勧めてみたところ、案の定気に入ってくれたらしく、「この映画を見て、
これからのこと自分で考えなさい」って当時高校生だった弟にも勧めてた。 

             兄⇒すず⇒父⇒弟。

『いまを生きる』は、我が家に代々伝わる家宝(?)だったりするんだな。

ちなみに、『いまを生きる』でキーワードになるのが"情熱"なんですけど、
そういえば友達に「すずちゃんのホームページに対する情熱には感心する」
なんてことを言われたことがある。

確かにこんなに何かを頑張ったのって、中学のとき以来かも。
ちなみに、中学んときの趣味は、受験勉強と小説。

学校の授業中は小説書いて。勉強は、塾と家でやる。という毎日。
勉強は、ほんとに楽しくて、ほんとに自分から進んでという感じで。。
パズルのピースを一つ一つ埋めてって徐々に絵が見えてくるみたいに、
問題集の答えを一つ一つ、頭の中にも知識が一つ一つ埋まってって、
徐々に何かが見えてくようなわくわく感があったりとかして。。

ま、勉強が楽しかったのは、ほんのそのときだけなんですけど。
目的がなくなったからなのかな。。公文のCMじゃないけれど、
なんのために勉強するのか分からなくなってきてしまって。。。

高校入ったときは、上位5位以内をキープしてたのが、
高校でるときは下位5位以内、みたいな。(極端すぎ)
やるときゃやる、やらないときゃ全くやらない主義(?)は昔からネ。

ちなみに中学のとき、勉強を好きになったキッカケは、とある塾に通うようになってから。
なかでも数学と理科系が好きで、今思えばそれは塾の先生の影響だと思うんだな。

初めてそこの塾に行ったとき、数学の先生の強烈さに圧倒されたというかなんというか。。
たぶん40前後くらいの女の先生だったと思うんですけど、授業が始まった途端、
スイッチが入るひとで、すごい勢いで引き込まれるというか、目が離せないというか、、

その先生の授業を初めて受けたとき、思わず友達と顔を見合わせてア然としてしまったくらい。
あの・・血圧大丈夫ですか?みたいな。血管浮いてるし・・みたいな。
ていうか、すんごいツバ飛んでるんですけど・・みたいな? 
それはそれはよそ見のできない個性的なお方で。。

いま思えば、あれもいわゆる"情熱"だったのかも。。
影響面で、先生の存在って思ってるより結構重要なのかもしれない。
途中で数学の先生が他の人に変わった途端、やる気失ったもの。
学校同様、塾でも授業中、小説書いたり居眠りとかしちゃったりして。

「やる気のないやつは出て行け」なんていう先生がいたりするけれど、
生徒を引き込むくらいの情熱のない、そんなあんたこそやる気あるのか?
と、何年も経ってから、こんなところでこっそり言ってみる。

それから、理科の先生は、20代後半くらいの男の先生だったかな。。
先生と生徒の境界線がなくって、普通に話しかけるように質問もしやすくて、
友達との勉強会みたいな一体感があって、これまた遊び感覚で楽しかった。

当時の勉強で得たものがあるとすれば、今なにげに役立ってる"集中力"?
たとえば絵を描くときとか。文章書くときとかも。そのときの様子をいつも見ている
パパンいわく、「集中力」がスゴイねと。それだけは人一倍偉いと。(それだけかよ)

  "学ぶこと"も、違う側面から見ようとすれば、
  決して堅苦しいものではないということ。

たとえばニールは、「これだけ自分は本気なんだ」という"夢に対しての誠意"のため、
それからトッドは、先生の意志を継いで、自分やニールみたいな生徒を救うために、
もしかしたら教師(詩の才能も活かして科目は国語)を目指すんじゃないのかな。。
ただ単純に「楽しいから」というのも、ちゃんとした理由になっていると思うし、
そこで得た"感覚"に、未来へ繋がるヒントが隠されているのかもしれない。
ちゃんとした目的があれば、勉強ってかえって楽しいもんなのです。。

「考える力」を身につけるということ。

自分を縛っているのは自分自身。  
自分を傷つけられるのは自分だけ。 
自分を自由にできるのも自分次第。

すべては自分の考え方次第で、心は自由になれるということ。

自分で勉強の目的を見つけること。
それこそが、勉強の目的。

答えは自分のなかに!
未来はこの手のなかに!

<おとぎの国の共育ばなし> メルヘン・クラブ事務局
私たち大人はどうしても「正解」を出したがります。私も含めて、正しい答が欲しくて欲しくてしかたがないのです。ところが、幼い子どもたち(特に四才までの子どもたち)にとって、大人の考える「正しい答」が本当に正しいのかどうかが疑問になってまいります。

親が気になる「学業」を例にとりますと、子供の「吸収欲」には限界がありませんから、良い事も悪い事も全部身に付けます。と言う事は子供は本来「勉強家」であり「知識欲」の固まりと言えるのです。それも「無意識の世界」に直結した強い記憶として全てを取り込むのです

ところが、それほど「勉強好き」な子どもがどうして「勉強嫌い」になるのでしょう?いつか、どこかで、「勉強は面白くない」と教わったからではないでしょうか。新しい事を知る事は本当に驚きがあり感動があります。にもかかわらず、その驚きと感動をどこかで否定されたのです。勉強をしながら、勉強は面白くないと教わっているのです。

幼稚園に行くようになった娘がある時、お風呂場で寒さも忘れじっと水を出し放しにして眺めています。「どうした、、」「・・・・」そして、そっと蛇口から出る水に手を差し伸べ、何度も何度も掴もうとしているのです。「掴めないョ、、、どうして、、、」さて、何と答えればいいんでしょう。

勿論「液体」「個体」「気体」などの概念を持たない子どもに知的な説明は必要無いでしょう。「ほらっ!捕まえた。」と両手の指で小さな輪をつくり、中に流れる水を通すもよし、洗面器を取って受けるもよし、答はその都度変わるでしょう。

ただ、こんな時の子供の集中力と、魂から滲み出る学習意欲を感じとる事が大切だと思います。意外と水を出し放しにしただけで「何してんの、もったいないでしょ!」とか「水は掴めないの!」と言って蛇口をいきなり締めたりする事がある様に思います。

お出かけの途中、歩いていると道ばたや周囲のものに限りない好奇心を燃やし、俄然ハリキルのが子供です。楽しくて楽しくて仕方がないのです。道ばたの草花や虫たち、犬の欠伸に猫の背伸び、可愛い自転車からバスやトラック、ピアスをしたチャパツのお兄さんからお巡りさん。何でもが好奇心の対象物で、全てを学びの材料にしてしまうのが子どもなのです。

ところが、「何してんのよ、さっさと歩きなさいョ・・・」と言って、キュっと手を引く光景を見かける方も多いはずです。結局、「『学び』の原点である『好奇心』を持つ事はいけない事だ」と教えている事になるのでしょう。

子どもを連れて出かける時は、いつもの倍は時間をみて、ゆとりをもって出かけたいものです。一歩の長さも半分以下なら、当然歩く速さも半分以下なのです。おまけに大人の何倍も学びながら歩いているのですから。

本来、子どもは無意識の世界(夢の世界)で暮らしています。この時期に体験した事や、そこから学んだ事は子どもたちが一生忘れない強い記憶として、人生を大きく左右する事になります。そして、この無意識の世界の記憶として強く止めておいて欲しい事が「生きる楽しさ」であり「人への優しさ」ではないかと思います。

この時期に子どもの自由をあまり強制し過ぎると「辛さ」や「寂しさ」をインプットしてしまいます。そして、非常に訂正し難い強い記憶として人格の基盤を構成してしまいます。幼児期を大切にするという事は、この「無意識の世界」を大切にするという事なのです。

自分自身の心の状態が優しさや思いやりで満たせれてさえいれば、子供は必ずそれを学び取るのです。生きる喜びと限りないエネルギーに満たされたメルヘンの世界は、私たち大人にとっても日頃のストレスを解消する為の素晴らしい世界なのです。

メルヘンの世界で暮らす子どもには五感(視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚)を越えた超能力が強く備わっています。無意識の世界で爆発的なパワーを発揮するこの超能力は、見える物や聞こえる音、触った感触だけではなく、優しさや楽しさ、時として悲しさや恐さを心に直接感じとる不思議な力なのです。

大人でも感動的なシーンや物語に触れた時、何故かポッと体が熱くなる事があります。僅かながら体温が上がっているそうです。何かが確かに伝わったのです不思議な、そして当たり前の感覚です。子ども達は、そんな超能力を何時でも何処でも活き活きと働かせているのです。

「桃太郎さん」や「おむすびころりん」等のお話しをし終わるが早いか、すぐに「もう一度」とせがまれた経験は親なら必ずお持ちでしょう。同じお話しを何度でも何度でも聞きたがります。決して上手に語っている訳でもないのですが、せがみます。内容を聴き、理解し、楽しんでいる訳ではないからです。読み手の心を直接感じ、味わっているのです。
ストーリーを理解し感動するという、大人的な受け取り方ではないのです。読み手の心を何かに写し取り、読み手の感情と一つになって味わっているのです。

当然、お母さんが読んでくれたお話は、もう一度お母さんに読んで欲しいのです。おいしかったからです。お父さんが読んでくれたら、もう一度お父さんに読んでもらいたいのです。何度でも何度でも昧わいたいのです。疲れたお母さんがお父さんに交代しようとすると必ず「お母さんがいい」とせがむのは、お母さんの気持ちがおいしかったからです。

面白い事に「この悪い鬼達を退治するんだ、、、」などと本気で正義感に燃えて読んでいると、子どもは突然立ち上がり、本気で鬼をやっつけ様と腕を振り回したりもします。残像は夢の中まで続く事もあります。この超能力を「心の鏡」と呼んでいます。

心の中で「あゝ、じゃまくさい、もう。でも、そう言ってしまうのもかわいそうだし、」と、上辺だけの言葉や態度をつくろってみても、「だ〜め、ちゃんとよんで!」と子供はしっかり本心を写し取っています。だから私たち大人は子どもに嘘が通じないのです。ハイハイなんて生返事でもしようものなら必ず鏡に写しとられ、見抜かれるのです。そして、その時の親の気持ちの快不快を一つ一つ確実に心の中に刻みつけているのが子どもなのです。

チョッピリ興奮して「どうしてもっと優しくできないの!」なんて叱り方は、とても恐い叱り方だと思います。優しさを教えるつもりなのですが、その言葉の意味よりも、その時の親の心の状態を写し取っていますから、結局正反対の結果になってしまいます。必ずどこかで「どうして、もっと優しくできないの!」とお友達やお人形相手にやっているのです。「早くしなさい!」「ダメ!」等などの言葉をなるべく避けるのは、その時の大人の心の状態に問題が多いからです。

メルヘン・クラブでは「心の鏡」を大切にしています。朝は精いっぱい『今日も楽しい一日が始まるよ。あなたがいて良かった。ありがとう』という気持ちを込めて「おはよう(ございます。)」と言います。

子どもたちには「おはようございます。」という音が耳に聞こえ、『ありがとう』という感謝の気持ちが、確かに心の中に伝わるのです。「おやすみなさい」も同じです。『今日も一日ありがとう。ゆっくり休もうね』という音ではない気持ちが伝わるのです。「ありがとう」「ごめんなさい」も同じです。

言葉の中に隠された気持ちを確実にキャッチし、感じとっているのが子どもなのです。当然、言葉の遅い子どもやご挨拶の苦手な子どももいます。でも、それはいいのです。本人が表現するかしないかの違いです。「気質」の違いで、大きな問題ではありません。

逆に表現の苦手な子どもに「ちゃんとご挨拶は!」なんて叱る事の方が危険な事と思います。意識の世界では正しい事を教えても、無意識の世界では「挨拶の辛さや不快さ」を強く記憶させた事になってしまいます。

周囲の親や大人が楽しそうにご挨拶をしていると、必ず子どもはそれを真似ます。言葉ではなく「気持ち」を真似るのです。要は心の鏡を通して「ご挨拶って、なんて楽しい事なんでしょう。」という事が伝われば良いと思います。そして、子どもたちが一番楽しくご挨拶をしたいのが「お母さん」なんです。

まだ話せない頃から「○○○、おはよう」「○○○、おやすみ」といった願いや祈りにも似た言葉を交わし続けた母と子は無数の見えない通路で結ばれているのです。その通路を毎日掃除する方法がご挨拶です。その見えない通路を通して子どもは確実に何かを写し取っています。これが心の鏡なのです。

 何も教えようとせず、何も語ろうとせず、そっとそばに添うだけで子どもが育つ。

真の共育者とはそんな姿を言うのではないでしょうか。

■□■ 主な引用著書 ■□■

育児サークル・メルヘンランド(http://www1.neweb.ne.jp/wa/merchen/)
考える力・絶対学力を育てる「どんぐり倶楽部」(T.Itoyama)
(http://homepage.mac.com/donguriclub/frontpage.html#Anchor551231)
こころの散歩道(碓井真史・新潟青陵大学/看護福祉心理学部)
(http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/)

『LOVE』・・・レオ・バスカリア / 『魂の殺人』・・・A・ミラー
『新しき流れの中へ〜第十の予言の教え〜』・・・ジェームス・レッドフィールド

THE BLUE HEARTS "スクラップ" "少年の詩"
BUMP OF CHICKEN "sailing day"