総索引
「どんぐり倶楽部」のItoyamaです。
●こんなコメントを書くのは忍びないのですが...。やはり、既存の根本的で致命的な勘違いをされていると思います。20数年前に私が一時期安住していた場所なので、そのまま行くとどうなるか分かるんです。パターン学習の先のレベルではあるんですが、そこも通過点に過ぎないのです。
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■下記引用元<http://www.mori7.com/index.php?e=671
「絶対学力」と言葉の森の指導 森川林 2009/10/31 13:11
>「12歳までに『絶対学力』を育てる学習法」という本があります。
●私が書きました。
>本の内容は、基本的に賛同できます。例えば、高速計算のような単純な作業ではなく考える勉強を、テレビのニュースはできるだけ見ない、絵をかいてイメージで考える、などです。
>しかし、音読や暗唱も、高速単純計算と同じ扱いで書かれていたので、

●勘違いです。p.64-65でワザワザ別項目で書いています。高速単純計算とは別の勘違い解釈をしているからです。
>この本の内容について一言説明を書いておきたいと思います。
●下記、その<説明>の説明です。
>まず第一に、高速計算の批判の対象となっている公文式や百ます計算についてです。 公文式や百ます計算などの勉強法は、歴史的な意味があって登場しました。
●歴史は関係ありません。「人間的な判断力を含む思考する機能・思考力」養成ができるかどうかだけが問題です。
>それは、理解教育(個性教育)の行き過ぎに対する反省です。
●反省の仕方そのものが浅かったので根本的な修正方法を見つけだせなかったのです。
参照HP:
http://homepage.mac.com/donguriclub/yutori.html
§ゆとり教育に対する「批判」の勘違い
>理解教育によって基礎となる技能が習得できてない子供たちに対して、習熟教育(模倣教育)を提案したという意義がこれらの教育にはあります。
●ありません。なぜならば、習熟の意味と理論と手法の見直しはせずに、何の検証もなく新しい発見もなく従来の方法を強化することで習熟させたからです。習熟の理論と手法そのものを生み出さなければいけなかったのです。
参照HP:
http://homepage.mac.com/donguriclub/risu_kanji.html
漢字の習熟???...漢字は一度も書かないで覚えます。
>しかし、それがその後、行き過ぎてきたのです。
●ここが大きな勘違いです。手法が悪影響を及ぼす手法だったので弊害が出たことに気付いていないのです。ですから、「程度問題」とか「やりすぎに注意すれば」とか「少しなら」とか「基本だから」とか、理由にならない理由を探し出しているんです。手法そのものがズレテイルんです。
>ところが、習熟教育を否定して
●何処でも否定していませんよ。習熟はするんです。反復しなくても出来るんです。今までは、その理論も手法も無かっただけです。
>理解教育を優先するだけでは、また同じような過去の歴史に戻るおそれがあります。
●ここも勘違いですね。例えば、計算問題は文章問題の中に必ずあります。その時に必ず復習をしていますから計算問題だけの学習は全く不要なのに、習熟するんです。
>習熟と理解を対立させるのではなく、
●これはスリカエです。習熟と理解という言葉は使っていません。習熟という名の下に有害な反復をさせてることが問題なんです。
反復しなくても習熟は出来るんです。
>理解のための習熟という考えをしていく必要があります。
●これは螺旋状に相互補完的に熟成させるべきです。PCのマニュアルを全て熟知してからPCを使い始める人はいません。
>インド式九九なども習熟教育です。しかし、インド人に数学の得意な人が多いというのは多くの人の認めるところです。それは、インドの長い伝統の中で、習熟が自己目的化しない形で教育が行われているからです。
●インド式九九なども習熟教育...彼らの優秀性と九九は全く関係ありません。
●世界的にも優秀なソフトウェア技術者を数多く世に送り出しているインドでは、考える過程を重視します。数学のテストでも答えだけ書いていては正解でも点数はもらえません。答えを導いた考える方法を数式と一緒に言葉で理論立てて記述しなければいけないのです。効果的な学力養成方法は同じ(過程が大切)だということです。
※「絵図で考える」とは「絵図を参考にして考える」ことではありません。参考にするのではなく絵を操作することで目で考えて(視考力を使って)答えを見つける(発見する)のです。詳細については「新・絶対学力(文春ネスコ)」をご覧下さい。
>もし、インド式九九という習熟教育が自己目的化すると、例えば次のような競争になるでしょう。「うちは、20×20までの九九ができる」「それならこっちは30×30だ」「こちらは10分で九九が言える」「では、うちは5分で言ってみせる」など。 このような競争の仕方が、習熟自体の自己目的化です。高速教育は、高速が目的化しがちですが、それは伝統が浅いからです。これからは節度のある習熟教育が理解教育と共存するようになると思います。
●全く関係ありません。九九を知らなくても優秀な人は大勢います。
>第二に、一律反復の教育ではなく、個別理解の教育の重要性ということを著者は述べています。しかし、この発想は、先生の力量に左右される教育で能率が悪くなる面があるのです。
●先生の力量に全く関係なく(先生でない全くの教育素人の保護者でも簡単に出来ることはどんぐり倶楽部関連の保護者のブログで証明済みです)できるのが「どんぐり方式(どんぐり理論)」なんです。
>個別理解教育は、人のコストがかかります。それに対して一律反復の教育は教材のコストがかかるだけなので、能率を上げる工夫をすることができます。
●どんぐり倶楽部は人もコストもかかりません。
>能率が悪い個別理解教育は、
●これは、旧態依然とした理論も手法もお粗末な「個別理解教育」のことです。「どんぐり方式」とは全く別物です。
>一斉指導になりやすいという矛盾を抱えています。
●授業形式での進め方も公開しています。授業形式には授業形式のやり方があるんです。「どんぐり方式」なら一斉指導なのに個別理解教育にもなっている授業が可能なんです。
>つまり、学年別、能力別のクラス編成にして一斉に教えるような形でないと、多くの生徒を個別理解教育で教えることができないのです。それがこれまでの学校の一斉指導でした。
●これが全くの勘違いなんです。実際に私は学年もバラバラ能力もバラバラなのに1クラスで授業をしていました。対応できる手法を作り出せなかっただけです。
>この一斉指導に限界があったために、
●ここで、ナゼ限界が生まれるのかを検証すべきだったのに「無理だ」と諦めたんですね。これでは、未来はありませんし、現実的に全世界で打開策はありません。ですが、こんなことはどんぐり倶楽部では20年ほど前に乗り越えています。
>教材で個別化を図るという一律反復の教育が出ててきたのです。
●これが間違った道です。なぜなら、人間の認識方法は誰もが同じですし、考える材料も同じです。ですから、「考え方」そのものを教えるのに個別の教材は不要です。同じ教材なのに個別になる...これが理想であり唯一効果的な教材です。どんぐり倶楽部には全て揃っています。
>江戸時代の寺子屋教育も、一律反復の教育という形を取っていました。だから、世界でも類を見ないほど教育を普及させることができました。
●教育の中身はイロイロでしたね。ですから、この場で持ち出す話ではありません。
>今後求められるのは、一律反復の教育を土台にした個別理解教育という、両方の教育の長所を統合する発想です。それが言葉の森の指導だとまでは、まだ言いませんが。
●「どんぐり」ではとっくに完成しています。
>第三に、著者は、スポーツや音楽では反復は大事だが、勉強では反復は思考力を損なうと述べています。 しかし、これに対して、言葉の森では、言語に関する技能はスポーツや音楽と同じだといつも述べています。
●非常に曖昧な考察です。
>言語、つまり語彙や文章を身につけることが、
●「身に付ける」の内容によります。
>自分で考えるための材料になり土台になります。
●「考える」の意味が曖昧です。
>そのために必要な一つの方法が反復です。
●「そのために」の「その」の内容が曖昧なので続きません。
>反復教育が問題になるのは、バラバラになった死んだ知識や語彙を蓄積することが目的になってしまう場合です。
●それ以前に、言葉で表せないモノの方が多いことを忘れてはいけません。コチラの方が幼児・児童期には大事なんです。
>例えば、作者名と作品名をつなげるような知識、漢字の書き取りの知識、ことわざの知識など、要するにクイズ的な知識というものは、そのためにわざわざ長い時間を割けて覚えるようなものではありません。
●これは、論外。こんなレベルの話はしなほうがいいですね。
>これらの知識をバラバラの知識ではなく、文章の文脈の中で理解するというのが大事です。
●「文章の文脈の中で理解」という認識が非常に甘いしキケンです。十分豊かな再現環境を得ている人間であれば、類推作用を利用して「文章の文脈の中で理解」しながら消化も出来るんです。最初からすべきことでははありません。また、幼児・児童期には理解(視覚イメージ再現)に留まらずに、味わうこと(視覚イメージからの感情・感覚再現)まで持っていくことが重要なんです。
※学習方法は時期が非常に大事なのです。同じ手法でも時期を間違えると、同じものなのに、毒にも薬にもなるんです。
参考HP:
http://homepage.mac.com/donguriclub/text-kanji.html#Anchor177305
>例えば、漢字の場合でも、文章の中で漢字を書いたり読んだりする、ことわざでも文章の中でことわざを読んだり書いたりする、という勉強の仕方が大事なのです。
●ここで、読みと書きを同時に扱うのはナンセンスです。
>しかし、文章が大事だといっても、それを読んで理解するだけでは勉強の内容として不十分です。そこで言葉の森では文章を自分の血や肉として身につける暗唱の指導を取り入れるようにしているのです。
●ここは無理があります。→下段の 「暗唱の意義と方法」にてコメント
>第四に、言葉で考えるのではなくイメージで考える、ということ著者は述べています。
●曖昧な「イメージ」ではなく「視覚イメージ」です。
>しかし、こういう考え方自体が言葉でなければ考えにくいように、物事が高度になると、イメージよりも言葉の重要性が増してきます。
●全く逆です。さらに高度な物事は言葉は通じなくなります。私たちが詩を求めるのは必然なんです。言葉で言い表せないモノの方が圧倒的に多いからです。
>犬や猫もある意味でイメージで考えています。イメージで考えるのが効果的なのは、考える対象が具象的な時期の間です。
●それは、第一次段階の話です。意識しない(できない)場合でも私たちは視覚イメージで思考しているんですよ。そして、それは感情も感覚も抽象思考もなんです。
>例えば、算数の文章題で、「ドングリの数の2倍のクリがあり、クリよりも3つ少ないリンゴがありました」などという文章のときはいいのです。作文で言えば、「今日の朝ご飯」というような生活作文は絵になります。絵をかけばそれがそのまま文章になる時期の作文としてはこれで十分なのですが、小学校高学年からの考える作文になったときには、絵にはかけない話が増えてきます。
●残念ながら、この時点で大きな勘違いをされています。こういう考えでは「上」という概念さえ絵図には出来ないと言う方が出てきます。簡単です。□の中で上の方に・をかけばいいんです。名詞だけではなく動詞も形容詞も副詞も前置詞までも全て絵図で表現されている辞書(図解・英語基本語義辞典/桐原書店)があるのを御存知でしょうか。ことわざ絵本や言葉図鑑言葉図鑑(全10巻)...うごきのことば(1)/ 五味 太郎を御存知でしょうか。これらのことが、無意識下で行われるようになるのは必然です。必然ですのでこれを無意識に出来るように訓練する必要はないんです。すべきことは反対の意識することなんです。
>ここでやはり言葉の力というものが必要になってくるのです。
●残念ですが、言葉の力...そのものを誤解されていると思います。
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●上記以外には下記の記事についてのコメントも(目にしてしまいましたので)書いています。が、一般公開をすべきものではないと考えますので、読みたい方は個別にメールでお知らせ下さい。
【言葉の森http://www.mori7.com/】さんの下記記事に関するコメント→メールにて申請(donguriclub@mac.com)
暗唱の意義と方法
思考力を育てる暗唱
反復学習の問題点と対策
速読、多読、精読、難読の関係
国語力をつける問題集読書の方法
技術の教育から心の教育へ
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