http://www.riken.jp/r-world/info/release/news/2003/feb/index.html#frol_01
小脳から記憶や思考の謎に迫る:脳科学総合研究センター 神経回路メカニズム研究グループ:記憶学習機構研究チーム:チームリーダー 伊藤正男
自転車の乗り方を一度覚えると、意識しなくても乗れるようになり、乗り方は一生忘れないものである。このような“体で覚える”記憶学習は、小脳がつかさどっている。小脳の記憶学習は、神経細胞の情報の受け渡し場所であるシナプスでの伝達効率が長期間抑えられる「長期抑圧(LTD)」により実現する。1980年に世界で初めて小脳の長期抑圧をとらえたのが、伊藤正男脳科学総合研究センター所長である。伊藤所長がチームリーダーを兼務する記憶学習機構研究チームでは、長期抑圧の詳細な分子メカニズムの解明を行っている。最近、小脳は運動だけでなく思考でも大事な役割を担うことが明らかになってきた。伊藤チームリーダーらは、小脳の働きを統一的に説明する理論の構築と実証を目指している。

脳はなぜ記憶学習ができるのか?
数学の公式など、言葉で説明できる知識を“頭で覚える”記憶は、大脳のシナプスの伝達効率が長期間増強する「長期増強」により実現する。一方、“体で覚える”記憶は、長期増強とは逆に、小脳のシナプスの伝達効率が長期間抑えられる「長期抑圧」が担っている。
 例えば、自転車の練習をしているときの運動指令信号は、大脳から手足の筋肉を動かす神経へ直接伝わると同時に、小脳へも入る。小脳に入った信号は、小脳核にそのまま伝わるルートと、小脳皮質を経由するルートに分かれる。小脳皮質へ伝わった信号は平行線維からプルキンエ細胞へ伝わる(図1・図2)。
 1個のプルキンエ細胞には約17万5000本もの平行線維と、1本の登上線維が接続している。自転車の乗り方を間違えて転んだりすると、間違いを知らせる誤差信号がすぐに登上線維からプルキンエ細胞に伝わる。プルキンエ細胞に、平行線維と登上線維からほぼ同時に情報が伝わると、その平行線維のシナプスに長期抑圧が起きる。
 自転車の練習を重ねるうちに、間違った運動指令を伝える平行線維のシナプスは次々に長期抑圧され、正しい乗り方をしたときの運動指令信号だけが伝わるようになる。すると、自転車の乗り方を覚えたことになると考えられる。
長期抑圧の分子メカニズムに迫る
平行線維のシナプスに信号が伝わると、グルタミン酸(Glu)が放出される。これをプルキンエ細胞のAMPA受容体が受け取り、信号が伝わる。長期抑圧では、このAMPA受容体の機能が失われる。平行線維と登上線維からほぼ同時に信号が伝わると、なぜその平行線維のシナプスだけに長期抑圧が起きるのだろう。
 プルキンエ細胞の長期抑圧にかかわる分子が30種類以上、明らかになった(図3と表紙)。平行線維に信号が伝わると、グルタミン酸とともに一酸化窒素(NO)が放出される。一方、登上線維に信号が伝わると、グルタミン酸とともにストレスホルモンCRFや、IGF1という分子が放出される。これらの分子が第1メッセンジャーとなる。それぞれの分子は、プルキンエ細胞の受容体で受け取られ、細胞内の第2メッセンジャーに情報が伝わる。そしてリン酸化・脱リン酸化のシステムが動き出す。こうして平行線維シナプスのAMPA受容体(AMPAR)がリン酸化されて細胞骨格から切り離される。さらにAMPA受容体が細胞内に引き込まれることにより、長期抑圧が起きることが解明されてきた。
 「私たちの研究チームは、平行線維からの一酸化窒素放出に始まる経路で働く分子や、登上線維から放出されるストレスホルモンCRFなど、数多くの分子を発見し、その働きを探ってきました。最近では、分子を見つけるという段階から、長期抑圧の分子メカニズムをシステマチックに考える段階になってきました」
 長期抑圧が特定の平行線維のシナプスに起きるには、平行線維と登上線維からの情報が、ほぼ同時に伝えられたことを検出する場所があるはずだ。その“一致検出装置”が、情報伝達経路に4カ所あると伊藤チームリーダーらは考えている。
 「4カ所のどこかで一致すれば長期抑圧が起きる、あるいは、まずある場所で一致して、次の場所へと情報伝達が段階的に進む可能性が考えられます」
体で覚えたことはなぜ忘れないのか?
「長期抑圧では、まだ肝心なことが分かっていません。長期抑圧が永続化する仕組みが、大きな謎のままなのです」と伊藤チームリーダーは語る。
 例えば自転車の乗り方や泳ぎ方は、一度覚えれば一生忘れないものである。これは長期抑圧の永続化により、実現していると考えられる。通常の神経細胞では、核を持つ細胞体で遺伝情報に基づいてAMPA受容体が作られ、シナプス膜に運ばれ、数時間でAMPA受容体が新しいものに入れ替わる。長期抑圧でAMPA受容体が細胞内に引き込まれて一度なくなっても、また補充されれば、長期抑圧は永続化しないはずだ。
 「AMPA受容体の補充、あるいは、AMPA受容体の生産が止まる仕組みを、遺伝子との関係を含めて考える必要があります。AMPA受容体は、いろいろなサブユニット(部品)で構成されています。GluR2というサブユニットは小脳の神経細胞に多く見られ、長期抑圧に関係しています。このGluR2が細胞体で作られ、シナプス膜に送り込まれる過程に、いま世界中のグループが注目して、研究競争を繰り広げています」
 永続化メカニズムの解明が難しい理由には、長期抑圧を短時間しか計測できないという技術的な制約が大きい。現在は小脳の切片などに微小電極を当てて計測しているが、神経細胞を長時間維持することができず、せいぜい3時間までしか長期抑圧を追跡できない。
 「現在の脳科学の技術は、脳細胞で起こる短時間の現象は詳細に分析できるようになりましたが、時間的に長い現象を追うことは苦手なのです。長期抑圧の分子メカニズムを詳しく探ることにより、長期抑圧が起きていることを可視化し、長時間計測できる技術を開発することが、私たちの大きな夢なのです。私はすでに名前だけ作って“LTDプローブ”と呼んでいます。LTDプローブができれば、長期抑圧の永続化メカニズムだけでなく、“そもそも小脳は何をやっているのか”を探る強力な手段になります」
小脳を神経回路レベルで探る
シナプスには、相手の神経細胞を興奮させるタイプと、抑制するタイプがある。プルキンエ細胞のシナプスが抑制タイプであることを、伊藤チームリーダーらは1964年に解明した。
 「プルキンエ細胞がブレーキをかけて信号の通り方をうまく調節することで、巧みな運動ができるようになるのです」
 さらに伊藤チームリーダーらは、小脳の片葉と呼ばれる領域のプルキンエ細胞が、「前庭動眼反射」をつかさどる延髄の前庭核に抑制信号を送っていることを1970年に発見した。
 研究チームでは、神経回路レベルで小脳の機能を調べるために、この前庭動眼反射の研究を行ってきた。前庭動眼反射とは、視覚像がぶれないように、頭の動きに対応して眼球が反対方向に動く反射である。内耳にある前庭器官が頭の動きをとらえて前庭核に信号を送り、前庭核が眼球を動かす筋肉に運動指令を送る。例えば、その指令が強すぎると眼球が大きく動きすぎて視覚像がぶれてしまう。そのぶれを網膜がとらえて、誤差信号として登上線維からプルキンエ細胞へ伝える。プルキンエ細胞は前庭核にブレーキをかけて眼球がちょうどよく動くように調節すると考えられる(図4)。
 「ところが米国のグループが前庭動眼反射の別の神経回路モデルを提唱し、私たちと20年来論争をしています。2002年、ATR人間情報通信研究所の川人光男さんのグループが発表した神経回路のコンピュータ・シミュレーションは、私たちのモデルを支持しています。前庭動眼反射は小脳がかかわる最も簡単な回路ですが、まだ議論が続いているのです」
大脳の思考モデルを写し取る
「人間の脳には“小脳チップ”が5000枚ほどあります」
 小脳では幅1mm、長さ10mmほどの短冊型の「微小帯域」が、1枚のコンピュータ・チップのような機能単位として働く。1つの微小帯域には約500個のプルキンエ細胞や小脳核が含まれている。運動の練習では、最初は意識しながら手足を動かしているが、やがて意識しなくても巧みな動きができるようになる。これは大脳で意識して行っていた運動モデルを、小脳の微小帯域の回路が“写し取った”と考えることができる。つまり、写すべきシステムと同じ出力になるまで誤差信号によって小脳の微小帯域の回路が書き換えられていく(図5)。微小帯域が運動モデルばかりでなく、言語やイメージなどの思考モデルも写し取るという理論で、伊藤チームリーダーらは、小脳の働きを統一的に説明しようとしている。
 「物事を覚え込んでいくと、やがて、ある考えがすらすらと出てくる。こういった思考における学習も、運動と同じような原理で小脳が行っていると考えられます。例えば米国のM. E. Raichle(ライクル)らの研究では、“リンゴ”と言ったら“食べる”と答えるような、たくさんの名詞を次々と動詞に転換する課題は、練習をすると間違いなしにできるようになります。しかし小脳に異常があると、いくら練習しても間違いがなくならないのです」
 生物進化の過程で、小脳は大脳の発達と並行して大きくなってきた。「サルやヒヒまでは、小脳の機能はすべて運動に関係しています。しかしチンパンジーなどの類人猿、さらに人間になると小脳が外側に大きく広がりました。この領域は高度な情報処理や思考をつかさどる大脳の連合野とつながっています。外科手術でこの領域を取り除いても運動障害が現れないことが臨床的に知られています」
 言語やイメージ、概念などの思考モデルは、大脳の頭頂葉や側頭葉の連合野に蓄えられており、それを前頭葉の連合野が操作することが思考だと考えられる。しかし繰り返し思考を続けていると、頭頂葉や側頭葉の思考モデルを小脳回路が写し取る。すると前頭葉は、小脳が写し取ったモデルを直接操作して思考するようになる(図6)。「特に、とっさに予測したり判断するときには、小脳の思考モデルを使うはずです」
 近年、fMRI(機能的磁気共鳴画像診断装置)など、脳を傷つけることなく、活動を計測する技術が発達してきた。このような技術を使って、思考過程で小脳が活動することが実証され始めている。
 例えば、英国のA. Ploghaus(プログハウス)らによると、赤と青のランプがあったとき、赤いランプがついたときにだけ熱刺激がくる実験を続ける。やがてあるとき、赤いランプをつけておくと、熱刺激を与えないでも小脳は熱刺激がきたときと同じような活動を見せる。「赤いランプを見たときに、“次に熱刺激がくるぞ”と小脳が予測していると考えられます」
 “体を他人に触られるとくすぐったいのはなぜか?”という問題にも小脳が関係しているらしい。自分がくすぐるときには小脳の予測どおりに刺激がくるので平気だが、他人の場合には予測とずれるので、くすぐったい。自ら操作するロボットの手で自分をくすぐるという実験で、操作してからロボットが実際にくすぐるまでの時間的なずれが長いほどくすぐったくなり、小脳が活動するという計測データを英国のS. Blakemore(ブレイクモア)らが発表している。
 精神病における幻聴も、小脳の働きで説明できるという大胆な説もある。例えば何かの判断をするときに、小脳のゆがんだ思考モデルから大脳に戻ってくると、自分の考えだと思えずに、他人が発した声だと認識してしまうのだという。
 「大脳の思考モデルを小脳が写し取ることは分かってきましたが、どのようなプログラムが写し取られるのかは、分かりません。そもそも大脳の神経回路に言語やイメージなどが、どのようにプログラムされているのか、分からないのです。言語野の場所は分かっていますが、そこにどういうメカニズムの回路が存在し、言葉がしゃべれるのかは大きな謎です。それを写し取る小脳に、どのような回路ができるのか、見当もつきません」
 さまざまな機能が解明され始めた小脳のメカニズムを研究していくには、脳活動を神経細胞やシナプスレベルでとらえたり、長期観測を可能にするLTDプローブのような計測手段のブレークスルーが不可欠だと伊藤チームリーダーは指摘する。
 伊藤チームリーダーらが切り拓いてきた小脳の研究は、領域をますます広げ、いまや思考やこころのメカニズムをも解明しようとしている。


監修:脳科学総合研究センター
神経回路メカニズム研究グループ
記憶学習機構研究チーム
チームリーダー 伊藤正男
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