§言葉のトリガー理論
「言葉はイメージを導くための引き金(トリガー)である」というのが「言葉のトリガー理論」です。私達の頭の中にあるのは言葉ではなくイメージだということです。音楽を考えるとハッキリするでしょう。楽譜は音楽の言葉ですから「言葉のトリガー理論」があてはまります。
譜面が読めるとは音符という記号(文字)を見て音がイメージできるということです。実に明快です。そして、言葉(文字・音声)は音符と同じ働きをしている記号なのです。どちらの記号もイメージを再現するためのきっかけなのです。譜面の音符を見ればそれをトリガー(引き金)として音を再現(イメージ化)するのです。言葉を見れば(聞けば)それをトリガー(引き金)としてイメージを再現するのです。そして「分かる」のです。だから譜面を見て曲が「分かる」のです。言葉を見て(聞いて)意味が分かるのです。音符のイメージの連続再生を曲と呼び、言葉によるイメージの連続再生を思考と呼ぶのです。どちらも、原形イメージがなければできないことです。さらに豊かな原形イメージが豊かな創造性につながるのは全てに共通しています。例えばA(ラ)の音色を一色しか持たない人と何十色も持っている人とでは感じ方も違いますし組み立て方も当然異なります。言葉も同じです。赤い花と言われて一種類の花しかイメージできない人と何十種類何百種類とイメージできる人とでは感じ方も表現の仕方も考え方も異なるのです。
さて、ここで全ての学習に関連する「言葉」について整理しておきましょう。私達は言葉を使って様々な情報を伝達したり理解したりしています。ところが、この言葉を教育の手段として考えるときには絶対に忘れてはいけないことがあるのです。
§言葉が分かるとはどういうことか
よく私達は「言葉で考えている」と言いますが、正確には「言葉をきっかけにしてイメージで考えている」のです。実は、私達は言葉そのもので考えているわけではないのです。このことを知らずに教育を語ることは鳥が翼を広げずに大空に飛び出すようなもので、非常に危険なことです。そして、しばしば悲惨な結果をもたらします。
私達は話の内容が理解できる時に「話が分かる」とか「話が見える」と言います。実は、この「見える」がキーワードなのです。英語でも「分かる」ことを
「 see(スィー)」 つまり「見える(目にする・目に入る)」と表現します。日本語と全く同じ感覚です。understand = see なのです。 ※フランス語「
voir(ヴゥワール)」でも同様です。
なぜでしょうか。それは、理解する方法が同じだからです。全ての人の理解の仕方は同じなのです。しかもそれは「見える」ということで共通しているのです。正確には見えること(視覚イメージ)を中心とした感じること(様々なイメージの体験)なのですが、ここでは中心となる「見える」こと(視覚イメージ)で確かめてみましょう。
「リンゴって分かる?」
「分かるよ」
「ホント?」
「え?リンゴって、あのリンゴでしょ?」
「あのリンゴって?」
「だから、あのリンゴでしょ?」
「だから、あのって、どの?って聞いてるの」
「え?だから、え〜っと、あの果物の食べるリンゴでしょ?」
「あのって?」
「だから・・・。もう、ココ!頭の中に今思い浮かべてるリンゴに決まってるじゃないよ!」
そうなのです。実は私達はリンゴ一個のことでも頭の中でイメージを作り出しているのです。
イメージは瞬間で反応しますから、普段はイメージを意識していないというだけのことなのです。言葉そのもので考えているわけではないのです。理解したり考えたりするときには必ずイメージを作り出しているのです。ですから、考えなくても「分かってしまう」ことがあるのです。瞬時に見えてしまう(=分かる)からです。
では、イメージを作り出せないとどうなるか確かめてみましょう。これは実話ですが、料理教室の隣で算数文章問題教室を開いていたときでした、隣の料理教室から次のような言葉が聞こえました。
「おとしぶた、とは豚肉の種類のことではありません」
すると教室の子供達が反応して
「そりゃ、お年を召した豚のこっちゃろ」
「落とし穴に落ちた豚じゃなかと」
「一昨年(おととし)生まれた豚かいな」
等と言い出しました。
そこで、私は絵を描きながら
「アホちん。『おとしぶた』っちゃ、煮物ばすっときに、鍋の口よいかちいっと小さか蓋ば材料に直接乗せる(落とす)こったい」
と説明しました。
もちろん「おとしぶた」とは「煮物をするときに、鍋の口よりも一回り小さな蓋を材料に直接乗せる(落とす)こと」ですが、落としぶたと聞いて豚肉をイメージしていたり「お年を召した豚」とか「落とし穴に落ちた豚」などと思ってイメージを膨らませていてはいつまでたっても料理の説明は分かりません。イメージの混乱は思考の混乱となるのです。つまり説明は永久に「分からない」のです。数学でも同様です。「さんかくちゅう」と言われて「三角に頭がとがったネズミ」と思っていてはアウトです。こう書くと笑い話に聞こえますがヘーゲルの「べんしょうほう」と聞いて「弁償するときに使われる法律」と思っていた人もいたそうです。これも同様にイメージの混乱です。思い違いとか言葉の勘違いと言ったりしますが実はイメージできなかったということなのです。
さて、今度は視覚以外のイメージでも確認してみましょう。今までに見たことも触ったこともない物を目を閉じて何度も触ります。その際に、自分で考えた名前を覚えるようにします。子供がガチャポン(ガチャガチャ)などで持ち帰ってくる得体の知れない物がいいでしょう。その名前を例えば「ぱよん」という名前にするとします。すると「ぱよん」という言葉を耳にすると、触った感覚が再現されます。この感覚の再現が理解する・分かるということなのです。言葉そのものが理解の対象ではないのです。つまり、分かるには再現されたイメージを体感する必要があるということです。従って、言葉とイメージがつながっていない場合は「分からない」のです。「カバ」は分かりますが。「カハ」は分かりません。イメージできないからです。読めるだけではダメなんです。ですからイメージできない言葉をいくら覚えても無意味なのです。再現イメージを体感することが分かるということだからです。
次に、今まで知らなかった知識を得るとはどういうことなのかを考えてみましょう。知らなかった言葉を理解するとはどういうことでしょうか。それは、既存のイメージを利用して新しいイメージを類推して形作るということです。例えば「オレプル」という果物があったとしましょう。中身はオレンジですが外見はアップルです。ですから「オレプル」と呼びます。オレンジもアップルもイメージ化できますからオレプルも類推できます。類推できるということはイメージ化できる、つまり分かるということです。知らなくても実物を見たことが無くても「そう言われれば分かる」とは「イメージの類推によって見ることができる」ということなのです。
類推できるのは物だけではありません。子供に「ヘビがムニョる」って分かる?と聞いてみて下さい。「分からない」と言います。もちろん、これでは分かりません。ですが「ムニョる」を尺取り虫の動きだと絵を描いて説明すると直ぐに分かります。すると直ぐに何にでも使えるようになります。「ネコがムニョる」「エビがムニョる」「木の枝がムニョってる」イメージできるからです。 次の例は一般には、味覚の混乱と言われているようですが、混乱というよりは類推です。
よく熟したアボガドと刺身醤油とワサビを用意します。
アボガドは長方形に一口大に厚さ3ミリ程度に切ります。
このアボガドを醤油(ワサビはお好み)につけて食べます。
すると、アボガドという果物を食べていると分かっているのにマグロのトロの味をイメージする人が多いようです。自分が持っている味覚イメージを類推したのです。ここで重要な点は、マグロではないと視覚では判断しているのにマグロの味だと思ってしまう自動判断機能です。頭は自動的に類推するようになっているのです。「〜らしい」「〜のようだ」という「曖昧だが判断を下す」力があるということです。そういう仕組みになっているということです。理解するための補助機能と言えるものです。ところが、この時にマグロの味覚イメージを持っていないと、類推することができないので「変な味」とか「分からない」となります。
以上のことからも「分かる」ために重要なことは、類推したり再現したりする時の材料となるイメージ(原形イメージ)を持っているかどうかだということが分かります。
人は頭の中でイメージしたもの(その多くは映像)を体験することで、からだで納得し、「分かった」と感じるのです。逆に、イメージできないもの、頭で体験できないものは、納得できませんし、「分からない」のです。つまり、イメージを体験することが「分かる」ということなのです。
§言葉とイメージ
では次に、様々なイメージを作り上げるにはどうすればいいかを考えてみましょう。材料がなければ製品を作ることはできません。イメージも同様です。様々なものをイメージするにはイメージの原形にあたる原形イメージ(原風景・原体験)が必要です。そして、その原形イメージは言葉と結びついている時に特に力を発揮します。なぜならば、イメージは言葉を引き金にして再現されるからです。 言葉の機能をよく理解することができる例としては「アン・マンスフィールド・サリバン&ヘレン・アダムズ・ケラー」が最適だと思います。1887年4月5日、ヘレンはサリバンによって言葉(文字)を獲得します。その時のことをヘレンはこう書き残しています。
「だれかが水をくんでいるところでした。先生は私の手をその水の吹き出し口の下に置きました。冷たい水が片方の手の上をほとばしり流れている間、先生はもう片方の手に「water」という単語を、始めはゆっくりと、次には速く、綴りました。私はじっと立って、先生の指の動きに全神経を集中させました。突然私は、なにか忘れていたものについての微かな意識、わくわくするような思考のよみがえりを感じました。そして、どういうわけか、言葉の持つ秘密が私に啓示されたのです」
言葉(文字)とイメージが一致した瞬間です。つまり、言葉が分かった(言葉からイメージを再現できるようになった)瞬間です。これが「分かる・理解する」ということなのです。サリバンはヘレン・ケラーのココロに原形イメージを作ることができたのです。この「分かる」ということが本当に分かっていないと教育はできません。
ここまで来ると、どうして誰もが母国語を話せるようになるのかも分かります。それは体験に音声(母国語)を添えて吸収しているからです。その音声が引き金となってイメージが再現され、そのイメージを追体験することで理解が可能になるからです。読み書きができない人はたくさんいても母国語を理解できない人はいない理由がここにあります。
§体験的学習が重要な理由
体験的学習が重要だということは前著「絶対学力」でも書きました。また、校外に出て何かをさせることが体験的学習ではないことも書きました。体験的学習とは言葉と体験(体験イメージ)を結びつけることです。それなのに、何かをさせることが体験的学習だと思っている人がまだまだいるようです。これでは、折角の体験的学習も学力には結びつきません。正しい体験的学習が学力養成(特に吸収力の養成)に効果的である最大の理由は「分かる」の素となるイメージを言葉と結びつけてたくさん作ることができるからなのです。体験的学習は知的系統的学習に比べて圧倒的に多量の情報を提供してくれます。つまり、圧倒的多数のイメージを提供してくれるということです。私は、これらの理解の素となるイメージを原形イメージと呼んでいますが、人はこの原形イメージを持っていないと考えること・理解すること・分かることができないのです。もちろん豊かな言葉を添えて味わうようにすることが最良の方法です。言葉を通してイメージが再現されなければ応用しづらいからです。言葉が無くても原形イメージはできますが、引き出すことができないのです。ここのところを意識して指導することが学力を育てるポイントなのです。一見同じ事をしているようでも、このポイントを押さえているかどうかで全く異なる成果を得ることになるのです。 何のための体験的学習なのかを知らずに効果的な指導ができるはずがありません。無目的に指導していた人は、今一度、目的を明確にしておかなければいけません。目的が確定できていない指導者の下で行われる体験的学習は単なる時間の無駄遣いになることが多いからです。
§誰もが持っている視考力という宝物
人間が持っている最高の情報処理能力は視覚イメージを使って、理解したり、考えたり、伝えたりする時に使う視考力です。そして、この視考力の使い方をほんのちょっと工夫して子供たちが使えるように指導してあげれば、今までは反対の力だと考えられていた「計算力」も「考える力」も同時に育てることができるのです。このように工夫することこそが教育者のすべき仕事なのです。子供の記憶力が優れているからといって、多量の知識を覚えさせているようではいつまでたっても本当の教育はできません。知識の暗記は応用の利く基本ではないからです。
視考力(目で考えること)の大切さ・楽しさ・ラクさを子供達に意識させると子供達は自力で成長することができるようになります。なぜなら、目で考えることは誰もが生まれたときから最も頻繁に使っている最も簡単で効果的な学習方法だからです。幼児期に付けなければならない本当の学力とは視考力のことだったのです。私達は誰もがこの得意技を持って生まれているのです。産まれたばかりの赤ん坊でも、視覚系のメカニズムは大人と変わらないことが知られています。ということは、視覚イメージでの思考を始めているということです。ですから、言葉を知らなくても「分かる=見える」のです。学習にこの得意技を使わない手はありません。鳥は翼を使って飛ぶことで本領を発揮します。人は視考力を使って情報を処理することで本領を発揮するのです。
教育界には「ゆとり教育」「基礎計算力の強化」「問題解決能力の養成」「体験学習の実践」「感情教育の見直し」「表現力の育成」等と様々な目標がありますが、視考力はこれらを全て同時に強化することができるのです。なぜならば視考力は誰もが生まれてから死ぬまであらゆる面で使っている万能力だからです。伝えるときにも理解するときにも発見するときにも視考力は抜群の効果を発揮するのです。特に問題解決学習では先生の方でも教え方が全く分からずにいる場合が多いようですが、問題解決学習とは「文章を絵図で表現する練習のこと」です。この基本的なことを知らない先生は「問題解決学習は止めた方がいい」「応用である問題解決学習をさせても無理です」「時間ばかりかかって何もできない」挙げ句の果てには「へたな考え休むに似たり」などとトンチンカンなことを言ったりするようです。今までは具体的で効果的な指導方法が示されていなかったので力量のない先生には大変でしたが、それにしてもお粗末な話です。ですが、もう大丈夫です。「お絵かき」でいいのですから、楽しみながら指導すればいいんです。
では、誰もが持っている「視考力」をどうして今まで育てようとしなかったのでしょうか。それは「分かる・理解する」ということがどういうことなのか分かっていなかったからです。今でも多くの人は「人は言葉(言葉そのもの)で考える」と思っているようですが「人は言葉を使ってイメージで考える」のです。つまり、言葉は単にイメージを再現するための引き金に過ぎないのです。言葉(文字や音声や記号)はイメージ再現の引き金(トリガー:trigger)なのです。この「言葉のトリガー理論」を知らなかったので視考力という力は持っていたのに使い方を教えることができなかったのです。今までは特殊な人々が使う特殊な思考形態と思われていたようですが、視考力は人間の最も得意な技を使った最も楽で効果的な考える方法なのです。しかも視考力はあらゆる思考活動の基礎を作りますので一生の財産になるのです。この力を育ててもらった子と育ててもらわなかった子では理解力が格段に異なります。また、視考力を使うと最小限の力で最大限の効果を期待できることも視考力の特徴です。有限なエネルギーを効率的に使えるということです。だから余裕を持って色んな事ができるのです。計算が速ければ余裕ができるなどと言うレベルの話ではないのです。これは、人間が持っているずば抜けた視覚イメージを利用した大量最速の処理能力に由来します。 視覚情報の処理が最速でできることには理由があります。そもそもは、生き延びるための本能から来ているのです。襲われたときに視覚イメージの処理が遅いと命取りになるからです。また、視覚イメージには体(頭)が瞬時に反応するようにできていますが、これも本来は生命維持のために必要な反応だからです。さらに、瞬時に反応するので、判断の時間は与えられません。このように、視覚イメージは瞬間反応のための基礎情報として受け入れられるようになっているので、即座に頭で肯定されるようになっているのです。視覚イメージを肯定しないと走ることさえもできないからです。つまり、人は視覚イメージを信じて行動するようにできているということです。
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