総索引*どんなに監視体制を強化して異常を事前に察知しても異常自体は減少しません*
■日本の教育は今、非常に危険な状態にあります。自分のお子さんは自分で守ってください。一番恐ろしいのは感じることが出来ないように育ててしまうことです。感じていないのに感じているようなことを言わなければならない、書かなければならない状況は感味力を消滅させます。だから、幼児・児童期に表現力養成はしてはいけないんです。子供がどう思っているか知っているのだろうか。全国規模の作文コンクールで表現の猿真似をさせられた子供の反抗の記録も参考になるでしょう→<2006.9/5読売新聞・夕刊〜余響〜>→実はもっと根は深いんです。何も言えなかったら、あるいは感情を作られてしまったら一生自分の感情を知らずに生きていくことになるんです。<キレる子供の調査?...1億5000万円の無駄使い
●全国の小学校の先生に読んでいただきたい部分です。→残虐で幼稚な犯罪の元凶と予防策
※徳山高専女子学生殺害事件や長崎の小6同級生殺害事件や様々な猟奇的犯罪にも幼児・児童教育が深く関わっています。
1.安定した情緒(情緒教育)→2.正常な感情(感情教育)→3.理解・思考・判断力養成(思考教育)→4.表現力・知識・スピード
※4.を1〜3に入れ込むと人間養成のベースを育てられなくなります。知的系統的教育は幼児・児童期(特に9才まで、できれば12才まで)には厳禁なのです。一生使うベースとなる脳の回路は生後12年かけて作られるのです。その回路作成を邪魔する最も危険な教育が知識量とスピードを求める教育なのです。
※普通に見える子供がとる異常行動は異常行動に繋がる引き金が引かれたからではなく幼児・児童期に育てるべき(この時期にしか育てられない)違和感(感情教育)というブレーキが育っていなかったからではないでしょうか。今、多くの子供達はブレーキをつけて貰えずに急勾配の曲がりくねった山道を降りているのだと思います。

●やってはいけないウサギ跳び:やってはいけない徹底反復
 長い間基礎体力作りに効果的だと信じられていたことが危険行為だと分かっています。徹底反復学習も同じです。一刻も早く気づいてください。

●異常行動の理由
●理由1:表面的な偽物の学力を育てるための高速反射学習と実態を伴わない知識による無感覚判断学習。
●理由2:求めるべきではない時期に表現力を求めることで幼稚な判断を強化する表現力の養成。
●理由3:成熟した判断力を育てられずに異常な情報にさらされた時の固定的(幼稚な考えの)反応。
※全ては止められない(現代社会では普通になってしまった)異常な情報に対抗できるような成熟した
 頭を育てられない教育手法にあると思われます。
●異常行動の予防
●予防1:高速反射学習をさせない。
●予防2:小学校では表現力を求めない。※表現力の養成は「理解力・思考力・判断力」の後です。高校から。
●予防3:小学校時代は「見せない教育」も考慮する。
※インターネットは世界共通です。つまり、入ってくる情報に歯止めはきかないということです。
 また、日本が特別に異常な情報社会だというわけでもありません。さらに、宗教がらみの犯行は昔から
 全世界でありますが、日本は無宗教と言っていい状態です。すると、
異常事態の原因は教育以外には考え
 られないのです。今までの教育の根本的な勘違いが大きな代償を招いているのです。一件や二件の事件
 ならば本人の異常性に結びつけることもできますが、もはや個人的な問題に帰することができる状況では
 ありません。「普通の子」が「殺人事件」を起こすことは異常事態以外のなにものでもありません。
 教育内容や項目ではなく。教育方法を変えて、今すぐに「豊かな教育」を実践して欲しいと切望します。
食育と教育の共通点:感じることが出来なければ(感味力養成が出来ていなければ)
 正しい判断は出来ない(異常行動に繋がる)
 味蕾を育てられなければ正しい味は分からないし料理を味わうことも美味しい料理を作ることも出来ない。
 レシピを真似て作ることは出来ても何も分かってはいない。食育で一番大事なのは味蕾を育てることです。
 つまり、感味力養成です。味蕾が育つには臨界期があります。それなのに、味蕾を育てるべき時期にファース
 トフードを食べさせていては味蕾は育てられないまま臨界期を越えてしまい一生使えなくなります。
 「ゆっくり・ジックリ・丁寧に」味わうことなく感味力養成はできないのです。幼児・児童期に高速多量の反復学習を
 してはいけない理由と同じです。感味力を育てることが出来る時期に育てないと育てられないんです。

●前著「新・絶対学力」で警告していたことがおきました。原因も危惧していた通りです。
 特にカットした部分はまさに今回の事件の核心です。
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<小6同級生殺害>事件前夜のTVドラマで実行決意

 長崎県佐世保市の市立大久保小学校(出崎睿子(えいこ)校長、児童数187人)の6年生、御手洗怜美(さとみ)さん(12)が殺害された事件で、家裁送致された同級生の女児(11)が、県警の調べに「テレビのドラマを見て(殺害を)やろうと思った」と供述していることが分かった。事件前日の5月31日に放映されたミステリードラマで、カッターナイフで人を殺害する場面があったという。女児は4日前にも殺害を実行しようとしたと話しており、このドラマが実際にカッターを使った事件の引き金になった可能性もあるとみて慎重に裏付け捜査を進めている。(毎日新聞)
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「新・絶対学力(文春ネスコ)」
§見せる教育・見せない教育
 教えるだけ、見せるだけが教育ではありません。「見せない教育」もまた、「見せる教育」と同じように重要なのです。とくに視覚イメージは、良い方向にも悪い方向にも絶大な影響力を持っていますので、悪い方向に影響を及ぼしそうなものは「見せない」ようにすることも必要な教育となるのです。時期としては、判断基準を作る過程にある小学生の時期がもっとも注意を要するでしょう。
「わかる」ということは、「イメージできる」ということでした。ということは、再現してほしくない、あるいは肯定してほしくない映像(視覚イメージ)を見せなければ、どんなにそのイメージを喚起するような言葉などによる情報が入ってきても、「イメージできない」のだから「わからない」のです。また、イメージは言葉を添えられていなくてもココロに保存されますから、とくに児童期に与えるイメージには注意が必要です。つまり、「初めにイメージありき」なのです。そして、ココロに保存されたイメージに対して、言葉は後から無限に添えることができるのです。ですから、順番を間違える(先に言葉だけを覚えさせたりする)と、時間の無駄になるだけでなく、教育をしているつもりが教育のチャンスを潰していることにもなりかねないのです。
 この「目に入ること」の重要性と危険性を十分に認識していないと、とんでもない的外れの教育をしてしまうことになります。というのも、視覚イメージは言葉を引き金として再現されることが多いのですが、視覚イメージと言葉は一緒に保存されているわけではないからです。視覚イメージは言葉と切り離されて保存されているのです。ですから、教育の現場では視覚イメージが一人歩きする場合があることを考慮しておく必要があるのです。子供に判断力が育っていない段階で悪い例を見せると、悪い例の「悪い」がなくなって、ひとつの「例」として保存されてしまうからです。言葉よりもイメージのほうがより直接的であり、影響力が強いためです。花を大切に育ててほしいということを伝えるつもりで、「花の茎を折ってしまうと枯れてしまいます。だから、花を扱うときはやさしくしましょう」と言いながら、茎が折れている写真と花が枯れている写真を見せ続けると、茎が折れているイメージ、花が枯れているイメージが言葉から切り離されて、保存(肯定)されてしまうのです。
 さらに、
最近の幼稚で残忍な犯罪を考えると、幼児期に育てるべき判断力を育てられていない状態で12歳をすぎてしまっている子供大人が異常に多いように思われます。考える力を育てることができないと、判断力は育てられません。そして、判断力がないままに大きくなって活動範囲が急速に広がると入力される情報が急激に増加しますので「見せない教育」は通じません。すると、判断できないものを歯止めなく目にする(入力する)ことになります。判断力のない状態では見たものやイメージしたものは善悪の区別なく頭(心)に保存され何の抑制もなく再現されます。そして、体はその再現イメージを無意識に真似するのです。最悪のイメージトレーニングです。このような危険防止のためにも幼児期での「考える力」の養成は急務であり教育の原点でもあるのです。今の子供たちを見ている私の実感としては、小学校五年生くらいまでに、この力をつけてあげないと手遅れになると感じています。そういう意味でも小学校時代に育てるべき力は判断力の素となる「考える力」なのです。言い換えるならば小学校時代に育てるべき力は、小学校時代に目にするものに対する判断力ではなく、「見せない教育」が通じない中学以降に急激に増加する情報(恐怖映画や種々雑多な漫画や雑誌も含む)に対する判断力の素となる「考える力」なのです。
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<以下はカット部分>
小学校時代にこの力を育てられないと拠り所のないままに一生を過ごすことにもなりかねません。自分の価値基準(判断基準)がなければ他人の価値基準(判断基準)を使うしかないからです。この意味でも、小学校時代の教育は一生を左右するほどに大切なのです。
 アシュレイ・モンターギュ『暴力の起源』(The Nature of Human Aggression, 1976)の中に興味深い記述があります。「ロッド・プロトニクによると、現在のところ攻撃的反応を学習する機会のなかった動物に対する脳刺激で攻撃的反応を発生させた実験はないという。(中略)リチャード.D.サイプスの130の異なった社会についての調査によると、好戦的行動が認められるところでは、戦闘的スポーツが典型的に認められ、戦争が比較的まれなところでは、戦闘的スポーツが欠落している傾向がある。」
 すべての教育者は、注意深く参考にすべき貴重なデータだと思います。

<2004.6/8読売新聞・夕刊>
...鶴崎耕一教育長(56)は事件後、女児が二月にホームページに書いた詩を読んだ。地球環境や生命を大事にしようという内容だった。「なぜ他人の命を尊ぶことに結びつかなかったのか」といぶかる....
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「新・絶対学力(文春ネスコ)」
§小学校の役割
 小学校の役割は表現力を付けることではなく吸収力を強化することです。イメージブリッジの使い方を教えてあげることです。もちろん、家庭でもできます。
 イメージ力の養成はあらゆる場面(全科目)でできます。例えば、家庭科「この布をピカピカに光っている鋭い刃を持ったハサミでチョキチョキあるいはジョキジョキと切る。または、こうやるとハサミの刃を動かさなくてもスーッと切ることもできます。シワシワになっていると切りにくいのでピシッと伸ばして切りましょう」このようにして見えているもの(視覚イメージ)に音や言葉を添えてあげることで言葉とイメージをつないで保存できるのです。教育の場での説明は単なる説明であってはいけないのです。技術の習得が課題ではないのです。様々な音や言葉からイメージを再現できるような原形を作っているのです。体育でもできます「運動場を大きくグルーッと回ってからマットでクルッと前方前回りをして、グーッと背筋を伸ばすようにしてシャキッと立つ」などと、運動過程での声かけもこのようにすると自然に学力の素になります。日常会話なら「雲があるね」だけではなくて「フワフワっとした綿飴みたいな雲がポッカリ浮かんでいるね」でもいいでしょう。
 小学校の学習が評価されるための表現練習になっていては大変な時間の無駄です。それどころか、悪影響を及ぼす時間になってしまいます。高速計算、スラスラ音読、ひいてはハーモニカや笛やギターを上手に弾ける必要は全くないし上手であることを評価対象とする教育的理由も全くありません。これらの莫大な時間の無駄遣いに全く気付いていない人がいます。大変残念なことです。子供の教育は「思考力の養成」と「感受力の養成」が基本です。
「表現力」は最後です。間違っても作文の推敲などに時間をかけてはいけません。表現を固定してしまっているのに「文体を身に付けた」などと勘違いしてもらっては困るのです。表現は溢れ出てくるものです。それを、固定していては才能を潰しているようなものです。早くても、表現力の養成は高校からです。小学校は吸収力を高めることに全力を傾けます。中学校では小学校で育てた吸収力を使って多くの知識を吸収し、高校で消化して表現方法を模索するのです。
 子供達は評価されるために学校に行っているのではありません。特に小学校は吸収力を育てるための時期なので、評価のための教育などありえないのです。何かができるとかできないとかは全く関係ない時期に評価のための作業をさせていては本末転倒です。例えば音楽。これは音を楽しむことを主眼とすべき学科なのに楽器が演奏できるか、歌が歌えるか、譜面が読めるかなどを主眼としている先生がいます。ポイントがずれています。だから、「エーデルワイスってどんな曲?」と聞くと「難しいんだよなぁ」とか「笛でなら吹ける」となるのです。これは音楽を教わっていない印です。「テンポが遅すぎて僕は余り好きじゃないな」「ゆっくり波打っているようでの〜んびりしていていいなぁ」これが音楽でしょう。聞く心を育てるのが小学校の音楽です。笛なら、先生が笛を吹いて笛の音を楽しませる。楽しませることです。音を楽しむ経験をさせてあげることが音楽の授業です。そして、できれば、その体験の中に豊かな言葉を添えてあげるのです。こうすることで再現(追体験)が容易になり音楽が分かる子に育つのです。分かる・理解できるようになる過程は全て同じなのです。
 また、子供達自身も評価されることを望んでなどいません。子供達は自分の凄い力ではなく非力であってもいいから自分そのものを認められたいのです。作られた自信ではなく本当の自信とはそこから生まれるのです。点数や時間的な記録なんて本当に関係ないのですから、そんなもので直ぐに剥がれ落ちるような自信をつけさせてはいけないのです。さらに、私は確認する必要もないと思っています。確認している時間があるのなら、その時間を使って言葉と体験を結びつける時間を与え続けるべきです。それが教育です。教育とは確かめることではなく与えることだからです。こう書くと現実を無視した理想論のように聞こえますが私は受験のプロです。理想論ではないのです。その時々で確認しなければならない項目は本当に少ないのです。それなのに全ての項目を確認して評価しようとしているのです。これではいくら時間があってもたりません。例えば、計算は「割算の筆算」で確認すれば他は不要です。なぜならば、割算の筆算の中には四則計算が全て含まれているからです。つまり、割算の筆算ができれば全ての計算はできるということであり、できなければ、どこで分からなくなっているのかも割算の筆算で全て分かるということです。習って直ぐに習熟しなければならないことは実に限られているのです。時計などはいい例です。時計を習った学年で時計が読めない子がいても中学生で時計が読めない子はいないのです。それなのに時間を使ってプリントやテストをしている。おまけに宿題にまで出している先生もいる。全くの時間の浪費です。こんなことをしている一方で「小学校では考える力までは育てられないので、せめて読み書き計算だけはしっかりやっておこう」等というガッカリするような言葉を耳にします。これは本当にすべきこととは全く反対の考え方です。「読み書き計算」はいつでも取り戻せますが考える力・考え方は全ての基本であり、小学校で養わなければならない絶対基礎なのです。考える力は吸収力にもなるからです。もちろん、この力は受験勉強でも最も必要な力です。さらに驚いたことには「計算の力は、練習する努力にほぼ比例して、成績があがります。やればできるという思いが、実績の裏付けをともなって、自信と誇りと喜びをもたらします」などということを平気で言う先生がいる。こんなことで自信と誇りを持たせて本当にいいのでしょうか?直ぐに剥がれ落ちる怪しげな自信を付けてどうするつもりなのでしょう?私には、ダイヤモンドに銅メッキをして喜んでいるように見えます。子供達は誰もがダイアモンドの輝きを放っています。どうして気付かないのでしょうか。どうしてよく見ないのでしょうか。「簡単な計算なら暗算でできる」は「難しい問題は暗算できないからどうしていいか分からない」につながるし、難しい問題に直面するまで気づきもしません。だから計算力はくせ者なのです。一見基礎学力の王道に見えますが直ぐに使えなくなる見せかけの力なのです。小学校で身に付けるべきは一生使える基礎学力のはずです。絵を描けば解けるんだ、という何にでも通じる確実な対処方法を身に付けて自信とすべきではないでしょうか。これは一生の自信になるものです。その場しのぎの自信は悪影響を与えるだけだということが分からないのでしょうか。
 今まで「基礎計算力をつける」というと「どれだけ速く九九を復唱できるか」「どれだけ速く簡単な計算を暗算できるか」という観点でしか考えられていませんでした。全く違うと思います。「10の補数と九九は最速の視算でする。他は全て正確に筆算でする」これだけです。これで計算問題はおしまいです。一般的に「高速暗算練習」は目で考える方法を修得すべき年長〜小3あたりに行われます。これでは目で考える方法を知らずに過ごしてしまいます。「高速暗算練習」をさせるということは必要なことをすべき時間を使って不要な負荷をかけ続けているということになります。思考力の基本を育てるべきときにその時間を奪っていることになるのです。もちろん、それは意図的に奪っているわけではないでしょうが、結果的にはそうなってしまっているのです。これは、早急に改善しなければいけないことです。思考力の基礎を作り上げなければならない時期に応用の利かない方法で目先の成果だけを追い求めていることに気付かないのです。この時期には基礎計算力と同時に考える力の基礎を作りあげなければならないのです。「三角計算」は加減乗除+分数+約分+イメージトレーニングの全てを同時に練習できます。そして視考力の練習も兼ねているのです。普通の「読み書き計算」では無駄が多すぎるのです 計算練習というと32×2=64などの簡単な暗算を速くできるようにすることだと思っている人がまだいるようですが、この手の練習は時間の無駄であるばかりでなく基礎学力にもなりません。なぜならば、このような計算(簡単な暗算)は複雑な計算では使えないからです。「3009843×76」の計算は暗算ではできませんし、筆算でも使うのは「10の補数と九九」だけなのです。つまり、一般的には基礎計算練習と呼ばれて基礎学力になると思われている簡単な暗算は基礎でもなければ基本でもないということです。複雑な計算でつかえないものは基本とはいいません。基本は「10の補数と九九」だけなのです。32×2=64がどんなに速くできても全く意味がないのです。先につながっていない学習なのです。ところが「10の補数と九九」+筆算は全ての計算の基本となっています。だから計算練習はこれだけでいいのです。いかに、無駄な時間を計算練習に使っているかは子供の家庭学習時間に占める計算練習の時間を調べてみれば直ぐに分かります。それだけ考えない時間を作っていてはいつまで経っても考える力は付きません。
 学習前にウォーミングアップとして穴埋めプリント等を使って「高速暗算練習」をしている先生がいるようですが、もう少し工夫してもらいたいものです。ウォーミングアップならば文化的伝統を持っているソロバンでの暗算が格段に優れていますし、教育としても格段に優れています。ただし、学力の伸びを考えるとやはり、「三角計算」と筆算がベストです。無理なく無駄なく効果的だからです。そして、良質の算数文章問題に時間をかけなければいけません。良質の算数文章問題なら国語の力も同時につけることができます。
 ウォーミングアップとしては、さらに驚くようなことを平気で言う先生がいます。平気と言うよりも得意気に聞こえます。何か新しい発見でもしたような感じです。
「国語の授業だけでなく社会や算数の授業でも最初の数分間は古典や漢文などの暗唱用教材を用意して音読をします。これを毎日くりかえします。すると、学期が終わるころには子供達の多くはスラスラと暗唱できるようになります。彼らの記憶力には驚かされます。こうした積み重ねが子供達の学力の基礎を鍛え向上させるのです」
 一見尤もらしい記述ですが、こんなことは何十年も前からやっていることです。よく使ったのが百人一首です。ところが、教育の本質はこんなところになどありません。記憶力がいいから覚えさせる。そんなことを基礎基本と思っているのでしょうか。何とお粗末な考え方なのでしょう。こんなことは余裕のあるときにオマケとしてすべきことです。
 もちろん、音読を学習としてではなく健康面から考えると効果はあります。演劇の練習とも共通しますが大きな声で体(頭)を使って発音練習することは健全な心と体の育成には効果を発揮します。ですが、それでも学力養成とは別物です。

§算数の学習方法・注意すべき「高速単純計算」
 最後に最も問題の多い算数の学習について書いておきます。
 高速単純計算を授業前に短時間集中してするのは大声を出したり体操をしたりするのと同様に悪いことではありませんが。工夫としてはお手軽に終わっている手抜きです。また、このウォーミングアップであるべきことが家庭での宿題になっているようであればそれは全く無意味なことです。本格的な練習をせずにウォーミングアップだけをしても意味がないからです。
 全ての学習の基礎学力を作る時期である最も貴重な6歳〜9歳という時期に、こんな方法で基礎計算力を付けているようでは応用力は育てられないし、考える力など付きはしません。この時期の学習は「どんな方法でもいい」わけではないのです。ましてや「便利だからこっちがいい」程度のことで浮き足立ってはいけないのです。さらに「善し悪しはとにかく基礎計算力は付けられる」では絶対にいけないのです。これは子供の一生に関わる大重要事項なのです。
誰もが小学校時代にすべきことは中学以降の知識の洪水に十分に対応できる豊かな吸収力を育てることなのです。吸収力が育っていなければ何をしても理解が遅くついていけなくなります。逆に、吸収力さえ育てておけばどんな方面に進もうとも自分を活かすことができるのです。小学校の知識が不足していても吸収力で補えるし、吸収力が育っていれば6年間のことを1年間でも修得できます。吸収力は通常は6〜12歳(標準で9歳)で完成するようです。丁度真ん中が前著「絶対学力」で示した9歳の壁になります。吸収力とは抽象概念の理解力であり、簡単に言うとイメージ再現力です。理解の素は全てココにあるのです。ですから、小学校時代にいかに豊かな言葉を添えて原形イメージを作ってあげられるかが課題となるのです。これこそが、保護者と先生が協力して全精力を傾けるべき教育の原点なのです。与え続けることが小学校時代の教育なのです。「読み・書き・計算」をさせることが基本ではないのです。無理に押し込んでも体が納得しません。これは応用が利きません。イメージは納得することを簡単にします。無理に押し込んだ知識やイメージを伴わない知識は未定着の知識として反応はしますが応用が利かない考えられない頭の要素になります。その結果、定着した知識の反応さえも鈍らせる結果となり、自分で考えない単なる反射のような考えや行動をとることになってしまうのです。
※高速計算練習がどうしても必要な場合は、小学校6年生になってから3ヶ月程集中して練習させて下さい。そうすれば最も弊害なく最も効果的に計算力(高速計算)を身に付けることができます。間違っても低学年からの高速計算練習はさせないで下さい。

◆コーヒーブレイク・動かない自転車◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 みなさんは「動かない自転車」という笑い話を御存知でしょうか。私のホームページで紹介している話ですが「脳の活性化」と「考える力」の関係をよく表しています。
 タイヤはブンブン回っている(脳は最大限に活性化している)のに全く進まない(学力が育たない)自転車(子供達)があると言ったら驚きますか?自転車の足元を見ると一目瞭然です。スタンドを立てたままで懸命に漕いでいるのです。これでは確かにタイヤは簡単に良く回るでしょうが、自転車は全く進みません。自転車の用を果たすことは永遠にできないのです。さらに、実際にスタンドを立てたままで自転車を漕いだことのある人ならば、道を走るときの力の入れ方やバランスのとり方とは全く違っていることが分かるでしょう。タイヤを回せれば上手に走れるというわけではないのです。それなのに「タイヤをブンブン回すことで自然にドンドン走ることができるようになる」と思っている人がいる。何とお粗末な考え方なのでしょう。これではいつまで経っても道を走ることはできないし、ましてや坂道やでこぼこ道を走破することはできません。
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 年長から高校入試までを考えたときに最も大切な時期は6〜9歳の3年間です。この時期に目で考える力「視考力」を育てることができるかできないかで、その後の伸びが大きく異なるからです。しかも視考力はあらゆる思考活動の基礎を作りますので一生の財産とも言える力です。この力を持っている子といない子では理解力が格段に異なります。また、視考力を使うと最小限の力で最大限の効果を期待できることも視考力の特徴です。有限なエネルギーを効率的に使えるということです。だから余裕を持って色んな事ができるのです。これは、人間が持っているずば抜けた視覚イメージによる大量最速の処理能力に由来します。人は誰でも生まれてから死ぬまで優れた視覚処理能力を有しているのです。使い方を知らないだけなのです。実にもったいない話です。
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※異常なのは目の前の子供と環境を無視して教育をしている「勘違い教育」です。子供達が異常なのではなく教育方法が異常なのです。成長期に最も悪影響を及ぼす「スピードと量」というストレスを学力と勘違いしていることが大きな原因ではないでしょうか。
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★★0(計画的な妹殺人:短大生遺体切断事件
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★★1(危険な脳の活性化)
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★★2(乳脳と永久脳:2才児神話の崩壊)