<教育コラム001>〜残虐で幼稚な犯罪の元凶と予防策〜
青少年の犯罪で、よく「罪の意識が薄い」「反省が見られない」「短絡的な犯行である」「予兆を見逃していた」などというコメントを耳にしますが、これらのコメントは何ら事件の本質を指摘するものではありません。私は、事件の本質は「見せない教育の欠如」と「(人間らしい判断力を含む)考える力の欠如」にあると考えています。どちらも小学校時代にしておかなければならない教育の欠如です。
特に「罪の意識が薄い」という言葉は、犯罪につながる行為を肯定するように育てられてしまった子供には全く通じない言葉です。無意識のうちに、頭(体)が肯定していることに罪の意識を感じるはずがないからです。本人はピンとこないのです。彼がとった行動は無意識に「目にした・ありえることなんだ・あっていいんだ」と頭(体)が理解していたのですから、知識的に「いけないこと」と言っても頭(体)は納得できないのです。ですから、本当に加害者が反省することはないのです。豊かに育っていない心には響くものがないのですから当然です。もしも、本当に反省をさせたいのであれば、まずは豊かな心を作ってあげなくてはなりません。そして、そのためには豊かな心が育つ豊かな環境を与えるしかありません。犯罪者に豊かな環境を与えるのは、道義的にも許せないでしょうし、理論的にも矛盾しているように思えますが、他には方法はないのです。知らない人は、愛情深い行為と呼ぶかもしれませんが、そうではありません。人間は、そうできているのです。そう反応するようになっているのですから他には方法がないのです。
ちょっと確認してみましょう。例えば、私たちは長い間目の前にあった物がなくなると、「どうしてないの?」と思います。「あるのが当たり前なのに」「あるべきなのに」「なければならないのに」という感覚が生まれていたからです。この長い間目の前にあった物が花だったら素敵ですが、それが拳銃だったとしたら、ゾッとしませんか。
そして、この場合の拳銃と同じ位に危険なことが幼児期の高速学習・とくに高速計算です。速さを求める学習は、実は考えない訓練・判断しない訓練をしていることになるからです。考えずに条件反射的に処理しないと速くならないからです。
言い換えるならば、小学校時代に育てるべき力は、小学校時代に目にするものに対する判断力ではなく、「見せない教育」が通じない中学以降に急激に増加する情報(恐怖映画や種々雑多な漫画や雑誌も含む)に対する判断力の素となる「考える力」なのです。小学校時代にこの力を育てられないと、よりどころのないままに一生を過ごすことにもなりかねません。自分の価値基準(判断基準)がなければ、他人の価値基準(判断基準)を使うしかないからです。この意味でも、小学校時代の教育は一生を左右するほどに大切なのです。
アシュレイ・モンターギュ『暴力の起源』(The Nature of Human Aggression, 1976)の中に興味深い記述があります。「ロッド・プロトニクによると、現在のところ攻撃的反応を学習する機会のなかった動物に対する脳刺激で攻撃的反応を発生させた実験はないという。(中略)リチャード.D.サイプスの130の異なった社会についての調査によると、好戦的行動が認められるところでは、戦闘的スポーツが典型的に認められ、戦争が比較的まれなところでは、戦闘的スポーツが欠落している傾向がある。」
すべての教育者は、注意深く参考にすべき貴重なデータだと思います。
このようなことを考えると、現状での緊急課題は、遅くとも12歳以降には直面する異常な内容を含む情報の洪水に対して正しい判断をすることができるように子供たちを育てることです。そして、そのためには小学校で「表面的学力(読み・書き・計算力)ではない考える力」の養成と一般家庭への「見せない教育」の奨励が必須課題となります。この二つのことを無視していては、いつまでたっても残忍で幼稚な犯罪は減少しないでしょう。
※長崎小6同級生殺害事件について→■■
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