■絶対学力〜9才の壁をどう突破していくか?〜」(2003.03)【あとがき】
ここ5年の聞に、胃癌手術と脊髄内腫瘍摘出手術を受けました。
特に脊髄内腫瘍では医者から「珍しいもんにかかったなあ」などと言われました。
人は大病をすると人生観が変わると言います。
ですが、私はこれっぽっちも変わりませんでした。
病院のベッドの上でも、子供たちからのFAXやノートを添削し、より分かりやすい指導方法や新しい英文法を考えていました。
私は子供たちに、鋭い観察力と深い桐祭力を身につけてもらいたいと思っています。
これらの力が身につけば世界は限りなく素敵な様相を呈してくるからです。
私は、これこそが子供たちへの最高の贈り物だと思っています。
そして、そのためには「考える力」が必要なのです。
昨年も奈留島(五島列島)の千畳敷で、海水浴がてら石を集めてきました。
誰一人として見向きもしない石も、私には素晴らしい石に思え、辺り一面が宝の山でした。子供たちも私の真似をして、たくさんの石を集めて「きれいだね」「アヒルさんみたい」「何で丸いのかなあ」などと言いながら品評会をしていました。
それぞれに集める基準が違うので、それぞれに面白かったようです。
些細なことですが、ここでも子供たちはうっすらと自分で自分の基準(選択基準・判断基準)を作っています。多くの場面において、自分自身で判断基準を創り出すことができる人生は一気に素敵なもの・有意義なものになります。
私は、子供たちに自分の人生を楽しめる人間になってもらいたいと思っています。
そして、その基礎力が考える力であることは言うまでもありません。
教育とは、決して知識の切り売りなんかではありません。もちろん問題の処理方法を教えることでもありません。
教育とは学力を育むことです。
親である以上、あるいは教育者である以上は、間違っても「知識=学力」あるいは「処理能力日学力」などと思わないでください。 学力とは人生を有意義なものにする必要不可欠な考える力のことなのです。教育は子育ての一環です。 保護者も教師も教育者です。
ですから、子供と接する機会のある人は誰もが「教育とは何か」を真に分かっていなくてはいけません。
教育とは人生を楽しむことができる力を育てることです。
一人一人が自分独向の判断基準を創り出すことができる力を育てることです。
そして、学力とはこれらの様々なものの見方・考え方を理解できる力のことです。
私は自分の3人の子供に、ゆう・れい・めいと名付けました。
それぞれに複数の素敵な意味を持っているからです。
ひらがなにしたのは子供たちが大きくなって自分で自分の好きな意味を選択できるようにと思ったからです。
親がいつまでも、子供たちにアドバイスできるわけではありません。
全てを子供自らが判断し、選択しなければならない時期は直ぐにやってきます。
私達のすべきことは、この時の力の素を作ってあげることではないでしょうか。
※妻の多大なる協力に感謝します。(妻とこの本に Happy Birthday)
■新・絶対学力〜視考力で子供は伸びる 〜 (2004.03)【あとがき】 小学校の先生は、誰もが哲学者でなければなりません。
なぜならば、子供たちは哲学を学びに学校へやってくるからです。
哲学というのは生き方の学問です。
そして「生きる」とは「感動する」ことです。
このことを教えるべき人間が知らずに「生きる力」を育てられるはずがありません。
「感動」を味わわせるにも視考力は威力を発揮します。
なぜなら、視考力は容易に発見を促すことができるからです。
そして、発見の中には感動があるからです。
子供は教育次第で劇的に変わります。
特に小一〜小三は「9歳の壁」を乗り越えるためのもっとも重要で貴重な準備期間です。
今まで教育界では、視考力(目で考える力)を念頭に置いて学習を進めることはありませんでした。しかし、人は考えるときに必ずイメージを使っています。
目で考えることの大切さ・楽しさ・ラクさを子供たちに意識させてください。
これさえ身につけば、子供は自力で成長することができます。視考力は、中学を出て働く子供にも、大学まで進む子供にも、等しく必要な力なのです。
今までは「計算力の強化」と「考える力の強化」は同時にはできないと考えられていました。
ところが、視考力という考え方を導入すれば、この二つは同じ方法で強化できるのです。
まずは、ご自分で検証してみてください。
アインシュタインはこう言いました。「一番よく分かるのは自分自身で体験することだ」と。
私もそう思います。
なぜならば、人の基本的な反応は誰もが同じだからです。
そして、もっとも精密に検証できるのは自分自身だからです。脳裏によぎったことや感情までも知ることができるからです。
よく見れば誰にでも分かります。特別な訓練は必要ありません。まことしやかな情報に惑わされることなく、自分が感じたこと、反応したことを信じればいいのです。
まずは、自分で試してみることです。
それからでも遅くはないはずです。費用はゼロ、時間は五分。教育は子供たちの一生に関わります。五分を惜しむ人はいないでしょう。五分で分かる新しい手法を検証しないのは、明らかに何らかの意図があるからです。それは教育とは関係ない意図です。
教育は、どこかの会社のためにあるのでもなければ、どこかの先生のためにあるのでもありません。教育は、子供たちのためにのみあるのです。どうか子供たちのために、自信を持ってください。
教育は自信がなくてはできない
自信は自分の反応を信じる覚悟がないと
生まれてこない
私は、できあいの理論を信じません。私は目の前の子供たちの反応だけを信じることにしているからです。
しかしながら、今回だけは小山田さんという全盲の方にお話を伺いました。イメージ思考についての最終確認をしたかったからです。視覚のない方にも私の考えが通じるのかどうかを確かめたかったのです。イメージ(特に視覚イメージ)で理解したり考えたりしていることが全盲の方にもあてはまるのだろうかと思ったからです。
小山田さんは、「言葉はきっかけにすぎないですね」「イメージで考えているというのは、まったくその通りだと思います」と言われました。
この言葉を聞いて、私はこの本を書き上げることができました。
脳科学などによる証明は何百年とかかるでしょうが、子供たちへの正しい教育は今すぐ必要なのです。
今までは無批判的に、学力の基礎は「読み・書き・計算」と言われてきました。
また、誰もがそう思っていました。
そして、いまだに「読み・書き・計算」ができていれば学力は育っていると思われています。
ところが、何十年も「読み・書き・計算」をやり続けてきた結果、今日の学力低下問題にたどり着いたのです。「読み・書き・計算が徹底していなかった」という問題ではないのです。
学力の基礎が、「読み・書き・計算」にないことに、そろそろ気づいてもいいのではないでしょうか。
素振りを徹底しても実力はつかないのです。
私は、いつの時代にも子供に必要なものは、「遊び(Asobi)・友達(Tomodachi)・視考力(Shikouryoku)」だと思います。私はこれを「すべての子供に必要なATS」と呼んでいます。
日本には昔から教育改革という言葉はありましたが、教育改革そのものは存在したことがありません。
それは、教育の定義がなかったことに似ています。
「教育とは何か」
「理解するとはどういうことか」
を明確にできなかったからです。
前著『絶対学力』には
「教育とは人生を楽しむことができる力を育てること」と書きました。
そして、この本では
「理解するということはイメージしたものを頭(体)で体験して納得すること」と書きました。
この二つのことを忘れなければ、教育に失敗はあり得ません
最後に、毎年卒業生に贈る言葉をみなさんにも贈ります。子供たちに伝えたい一言です。
Your will makes your way.(君の道は君の意志が作る)
この本を、この本の執筆中に大動脈乖離で倒れた敬愛する父・幸一郎に捧げる。