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<教育コラム012>〜イメージトレーニングと学習の関係〜
●言葉のトリガー理論
 「言葉はイメージを導くための引き金(トリガー)である」というのが「言葉のトリガー理論」です。私達の頭の中にあるのは言葉ではなくイメージだということです。音楽を考えるとハッキリするでしょう。楽譜は音楽の言葉ですから「言葉のトリガー理論」があてはまります。
 譜面が読めるとは音符という記号(文字)を見て音がイメージできるということです。実に明快です。そして、言葉(文字・音声)は音符と同じ働きをしている記号なのです。どちらの記号もイメージを再現するためのきっかけなのです。譜面の音符を見ればそれをトリガー(引き金)として音を再現(イメージ化)するのです。言葉を見れば(聞けば)それをトリガー(引き金)としてイメージを再現するのです。そして「分かる」のです。だから譜面を見て曲が「分かる」のです。言葉を見て(聞いて)意味が分かるのです。音符のイメージの連続再生を曲と呼び、言葉によるイメージの連続再生を思考と呼ぶのです。どちらも、原形イメージがなければできないことです。さらに豊かな原形イメージが豊かな創造性につながるのは全てに共通しています。例えばA(ソ)の音色を一色しか持たない人と何十色も持っている人とでは感じ方も違いますし組み立て方も当然異なります。言葉も同じです。赤い花と言われて一種類の花しかイメージできない人と何十種類何百種類とイメージできる人とでは感じ方も表現の仕方も考え方も異なるのです。
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●学力の素
 学力の素と言うと何か商品のようですが学力の素はどこにも売っていません。なぜなら、学力の素はタダだからです。学力の素は体験的に入力されたイメージだからです。学力の素は言葉だと言われますが、表面的な言葉と読んでしまうととんでもない誤解を生みます。そこには深い意味が隠されているのです。言葉だけを独立して覚えても意味がないし使えないのは前述の通りで、イメージに添えられた言葉でなくてはイメージを再現できないので使いものになりません。次の図表を見て下さい。10個の要素を持っている情報はココロで10個に分けられて保存され、連絡網で結ばれます。ところが2個の情報しか持っていないならば2個です。もちろん体験的情報は多数の要素を持っているので多数の情報網を作ることができます。知的情報とは雲泥の差です。このように体験的学習は格段に多量の情報を分解してイメージ処理しているのです。
 イメージできない言葉は理解できない分からない。だから、豊富な言葉がタグのように付いている原形イメージを育ててあげることが学力の基礎となる。「教育は言葉を添えて目で分からせる」例えば「雲があるね」ではなく「フワフワっとした綿飴みたいな雲がポッカリ浮かんでいるね」と言ってみる。
 このようにして、豊富な言葉を添えた原形イメージを蓄積することが「分かる・理解する」ことの基礎になるのです。そしてココロを作るのです。体験が大切だと言われる理由は原形イメージを作り出す最も効果的な方法だからなのです。そして、体験を効果的に学力の素に変換するには言葉を添えてイメージの再現性を高めておくことが必要なのです。この再現力を私達は学力と呼んでいるのです。ですから「学力」は豊かな言葉を添えて様々な体験をさせることで育っていくのです。入力にも出力にも言葉はよききっかけとなるのです。体験が同じでも豊かな言葉を添えることで計り知れない応用が利くようになるのです。なぜなら、人は言葉を最も頻繁に使うからです。特に勉強するときには基本の基本となるのです。ですが、だからと言って、目に付くところに漢字表や年表などを置くことは止めて下さい。目に付くところには花や素敵な写真を置いておくことが大切です。すると、説明しなくても花がないと寂しくなり花を大切に思うようになるのです。これが教育です。計算や漢字ではココロを育てる教育はできないのです。
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●体は頭の真似をする
 私達の頭は、見えたものをまずは受け入れるようにできています。なぜなら、見えているものを受け入れなければ、瞬時に反応したり、行動したりすることができないからです。判断するのは、受け入れた後の意識的な選択になります。判断をする前に目の前のものを受け入れるのは、危険回避(生命維持)のためにも必要なことなのです。したがって、それが実物ではなくても、目に入れば実際にある物だと思ってしまいます。ですから、実際にはない物でも合成写真などを見続けていると、「あり得る」「あっていいはずだ」「あって当たり前だ」「絶対にある」「あるべきだ」「なければならない」ということにつながっていく可能性を持っているのです。最近でも、人が空を飛ぶ場面を見続けた子供が家の屋根から実際に飛んでしまって大怪我をしたというニュースがありました。これは単純に真似をしただけかもしれませんが、頭(体)が「人間は空を飛べる」ということを受け入れた結果による行動かもしれないのです。また、入力量を多くすると、意識しないうちに「していいんだ↓すべきだ↓しなくてはならない」となることも容易に推測できます。よく、映像は頭の中に焼きつくといわれますが、これは「人は目で見たことを無意識のうちに受け入れてしまうようになっている」からなのです。そして、それが原形イメージとなり、その後の反応の素になるのです。だからこそ、豊かな原形イメージを育てなければいけない時期に暴力的な映像を見せてはいけないのです。子供が目にした映像は、好むと好まざるとにかかわらず受け入れられ、原形イメージとしてココロに保存されてしまうからです。アメリカなどでは子供に暴力シーンを見せないように制限しています。これは立派な教育方針です。日本にも「子供の前でみっともない」という言い回しがありますが、この感覚は非常に大切なのです。見ることができるからといって、すべてを見せていいわけではないのです。ちょっと確認してみましょう。例えば、私達は長い間ずっと目の前にあった物がなくなると、「どうしてないの?」と思います。「あるのが当たり前なのに」「あるべきなのに」「なければならないのに」という感覚が生まれていたからです。この長い間目の前にあった物が花だったら素敵ですが、それが拳銃だったとしたら、ゾッとします。(この場合の拳銃と同じ位に危険なことが幼児期の高速学習・特に高速計算です。速さを求める学習は、実は考えない訓練・判断しない訓練をしていることになるからです。考えずに条件反射的に処理しないと速くならないからです。)
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●見せる教育・見せない教育
 教えるだけ、見せるだけが教育ではありません。「見せない教育」もまた、「見せる教育」と同じように重要なのです。特に視覚イメージは、良い方向にも悪い方向にも絶大な影響力を持っていますので、悪い方向に影響を及ぼしそうなものは「見せない」ようにすることも必要な教育となるのです。時期としては、判断基準を作る過程にある小学生の時期が最も注意を要するでしょう。
「分かる」ということは、「イメージできる」ということでした。ということは、再現してほしくない、あるいは肯定してほしくない映像(視覚イメージ)を見せなければ、どんなにそのイメージを喚起するような言葉などによる情報が入ってきても、「イメージできない」のだから「分からない」のです。また、イメージは言葉を添えられていなくてもココロに保存されますから、とくに児童期に与えるイメージには注意が必要です。つまり、「初めにイメージありき」なのです。そして、ココロに保存されたイメージに対して、言葉は後から無限に添えることができるのです。ですから、順番を間違える(先に言葉だけを覚えさせたりする)と、時間の無駄になるだけでなく、教育をしているつもりが教育のチャンスを潰していることにもなりかねないのです。
 この「目に入ること」の重要性と危険性を十分に認識していないと、とんでもない的外れの教育をしてしまうことになります。というのも、視覚イメージは言葉を引き金として再現されることが多いのですが、視覚イメージと言葉は一緒に保存されているわけではないからです。視覚イメージは言葉と切り離されて保存されているのです。ですから、教育の現場では視覚イメージが一人歩きする場合があることを考慮しておく必要があるのです。子供に判断力が育っていない段階で悪い例を見せると、悪い例の「悪い」がなくなって、ひとつの「例」として保存されてしまうからです。言葉よりもイメージのほうがより直接的であり、影響力が強いためです。花を大切に育ててほしいということを伝えるつもりで、「花の茎を折ってしまうと枯れてしまいます。だから、花を扱うときはやさしくしましょう」と言いながら、茎が折れている写真と花が枯れている写真を見せ続けると、茎が折れているイメージ、花が枯れているイメージが言葉から切り離されて、保存(肯定)されてしまうのです。
 さらに、最近の幼稚で残忍な犯罪を考えると、幼児期に育てるべき判断力を育てられていない状態で12歳を過ぎてしまっている子供大人が異常に多いように思われます。考える力を育てることができないと、判断力は育てられません。そして、判断力がないままに大きくなって活動範囲が急速に広がると入力される情報が急激に増加しますので「見せない教育」は通じません。すると、判断できないものを歯止め無く目にする(入力する)ことになります。判断力のない状態では見たものやイメージしたものは善悪の区別無く頭(心)に保存され何の抑制もなく再現されます。そして、体はその再現イメージを無意識に真似するのです。最悪のイメージトレーニングです。このような危険防止のためにも幼児期での「考える力」の養成は急務であり教育の原点でもあるのです。今の子供たちを見ている私の実感としては、小学校五年生くらいまでに、この力を付けてあげないと手遅れになると感じています。そういう意味でも小学校時代に育てるべき力は判断力の素となる「考える力」なのです。言い換えるならば小学校時代に育てるべき力は、小学校時代に目にするものに対する判断力ではなく、「見せない教育」が通じない中学以降に急激に増加する情報(恐怖映画や種々雑多な漫画や雑誌も含む)に対する判断力の素となる「考える力」なのです。小学校時代にこの力を育てられないと拠り所のないままに一生を過ごすことにもなりかねません。自分の価値基準(判断基準)がなければ他人の価値基準(判断基準)を使うしかないからです。この意味でも、小学校時代の教育は一生を左右するほどに大切なのです。
 アシュレイ・モンターギュ『暴力の起源』(The Nature of Human Aggression, 1976)の中に興味深い記述があります。「ロッド・プロトニクによると、現在のところ攻撃的反応を学習する機会のなかった動物に対する脳刺激で攻撃的反応を発生させた実験はないという。(中略)リチャード.D.サイプスの130の異なった社会についての調査によると、好戦的行動が認められるところでは、戦闘的スポーツが典型的に認められ、戦争が比較的まれなところでは、戦闘的スポーツが欠落している傾向がある。」
 全ての教育者は、注意深く参考にすべき貴重なデータだと思います。
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●イメージトレーニングと無意識の行動
 次に無意識の行動にイメージトレーニングが大きな影響を与える理由を考えてみましょう。
 無意識の行動とは視覚イメージの後追い行動です。頭で瞬時に再現された視覚イメージを体が真似しているのです。ですから、意識よりも素早く反応できるのです。無意識と言うよりも体が視覚イメージの後追い(真似)をしている現象なのです。視覚イメージの再現速度は人間の反応の中でも最速ですので様々なパターンを瞬時に再現できます。ですから、刻一刻と変わる状況にもトレーニング次第で瞬時に対応できるようになるのです。「無意識の中にも視覚イメージありき」ということです。体はイメージを追う(真似る)習性があります。ですから再現イメージは理想的なイメージであることが必要ですし、正確で現実的な方がいいのです。反対に失敗のイメージややってはいけないイメージを再現していると無意識に反応するときには、その悪いイメージを真似てしまいます。これが悪いイメージトレーニングをしてはいけない理由です。このことは子供の教育方法や一生の考え方にも大きなヒントとなります。特に十二歳以下の子供に反面教師は通じない、してはいけない、見せてはいけないということの理由の一つにもなっています。
 咄嗟の判断という言葉も同じです。言葉の上では「判断」といいますが意識的な判断とは異なり、体が反応したことを意味しています。何に反応したかというと視覚イメージにです。この「体は視覚イメージの真似をする」という習性を利用すると、瞬間的に反応しなければならないスポーツなどでは絶大な効果を発揮します。また、咄嗟の判断でとった行動は覚えていないことが往々にしてありますが、意識される前に再現された視覚イメージに従って体が反応するのですから当然のことです。
 野球で言うならば、内角ストレート高めのストライクゾーンに意識的にヤマをはっていた打者が、予想外の外角低めのボール球にでも正確に反応してヒットを記録することができる場合があります。意識外の行動ですから無意識の領域ですが、イメージトレーニングとそのイメージ通りの行動を再現できる(真似できる)運動能力を育てていれば難しいことではありません。これらのことは古くから言われていることで新しい理論でも何でもありません。私の愛読書である「葉隠」に至っては三百年前に書かれた優れたイメージトレーニング指南書です。
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●もう一つのイメージトレーニング
 もう一つのイメージトレーニングを紹介しましょう。これは体操などでよく使う方法です。今までにやったことのない動きをする場合に理想的な状態を体で先に体感してイメージを確立してから練習するという方法です。この方法は、逆上がり(鉄棒)、開脚跳び(跳び箱)、逆立ち(マット運動)など全ての運動に有効です。逆立ちを例にすると、まず、先生が補助しながら理想状態(逆立ちして足を揃えて伸ばして静止させた状態)を作り、その時のイメージ(体感イメージ)を頭(体)の中に定着させるのです。生徒には、このイメージを再現するような動きを追うように指導します。これが最も効果的な指導方法です。どうして、この理想的な体感イメージを持つことが最も効果的かというと、それは最も確実な自分の「お手本」を常に持っていることになるからです。練習しながら、このイメージ(お手本)に自分の状態を近づけることで逆立ちは簡単にできるようになります。小学校2年生の子が、1時間ほどでピタリと逆立ちして静止したときには驚きましたが、確かな体感イメージを持たせれば難しいことではないのです。自分が持っているお手本の体感イメージを再現できるように体を動かすだけでいいのですから1人でも正しい練習ができるのです。反対に、この正しい体感イメージがないままに練習すると何百回何千回と練習しても一向に上達しません。自分のお手本がないからです。お手本は常に参照できるところである頭(体)の中になくてはいけないのです。漢字の練習の時も、瞬時に正しいイメージ(字形と筆順)を確認できるようにお手本は常に真横に置いておく理由と同じです。
 体感イメージを利用できるのは、もちろん体育だけではありません。体を動かすことなら何にでも(指先のことでも)応用できます。「毛筆」なら、筆を持った生徒の手に先生の手を添えて一緒に筆を動かすことで体感イメージを作ることができます。字を綺麗に書かせたいのなら家庭で手を添えて指導すれば簡単に上達します。「音楽」なら、タクト(指揮棒)を持った手にカラヤンが手を添えて指揮をしてくれたら私達は限りなくカラヤンを体感できるでしょうし、タクトの存在理由も分かるでしょう。「工作」ならノコギリや彫刻刀を一緒に動かせば力のいれ具合や角度の付け方なども体感イメージとして伝えることができます。「家庭科」なら一緒に鍋を振ったり針を動かしたりすることでお手本となる体感イメージを残せます。どの教科でも体を動かすものには、まず、理想的な体感イメージを意識的に持たせるようにすることが最も大切なことなのです。この個人別の「お手本」を一人一人に持たせることが教育者の責務です。何かができる、できないは別の話なのです。余談ですが、実はその人にピッタリの素敵な笑顔でも、理想的な笑顔をしているときの体感イメージを持って練習することで、その素敵な笑顔を修得できるのです。演劇の世界などでは古くからなされている一般的なことです。
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 「分かる」から「考える」へ
 「この子は考える力がない」などと言いますが、考える力のない子はいません。考えることができない子は考える方法を教えてもらっていないのです。これは教える方の責任です。誰もが考える力は持っているのに、使い方を教えてもらっていないのです。また、小学校の時に、この「考える方法」を教えてもらっていないと「考えることができない頭」のままで一生を終えることにもなりかねません。この意味でも、小学校教育の見直しは最重要課題なのです。
 「分かる・理解する」とはイメージ化したものを体感して納得するということでした。つまり、イメージを作ることができれば分かるのです。ですが、分かっても考えていることにはなりません。考えるとは「イメージを操作すること」です。つまり、「考える」とはイメージを変形したり比較したり順番を変えたり見方を変えたりすることなのです。そして、このイメージ操作を頭の中だけでしようとすると、大きな個人差が出ますが、イメージを書き留めると個人差は限りなく小さくなります。計算と同じです。難しい暗算(983008÷26=37808)では、できるできないに個人差が出ますが、筆算ならば誰もが簡単にできます。頭の中でイメージを維持しながら操作する必要がないからです。この「イメージを維持しておく」という力は大量のエネルギーを消費しますので相当の訓練を要します。ですから、大きい桁の暗算などができると、一見「頭がいい(凄い)ように見える」のですが、記録することができる現代人にとっては不要なことなのです。特技や趣味や芸事として身に付ける分には異論はありませんが、学校で学習させるようなことではありません。学習させるべきは記録の仕方(算数なら筆算の書き方)なのです。
 簡単に整理すると「分かる」とは、頭(体)が納得(体感)できるイメージを作り上げることであり、「考える」とは、そのイメージを操作して移動や変形をさせていくということ。ですから、数学や体育などの区別無く、全ての学習では「イメージ化の練習」と「イメージ操作の練習」が必要であり効果的なのです。さかだちが「分かる」とは逆立ちしている状態の体感イメージを持つことができることであり、さかだちが「できる」とは、その体感イメージを自力で再現できるということです。自力で再現するには練習が必要ですが、それは必ずしもその時にできなければいけないことではありません。体感イメージ(自分だけのお手本)が大事だからです。これさえあればいつでも自分で練習できるからです。小学校時代には「できる」ことが重要ではなく「分かる」ことが重要な理由の一つです。